台風が過ぎ去り、やっと天気が落ち着いて来ました。
今朝は ウオーキングにも行けたし、10分草取りもできました。
午前中は 振替の 勉強会【折たく柴の記】
まとめを書く時間なくて頓挫しています
今日のところの 面白かったところだけ 抜き書き
時は正徳4年(1741)白石が献身的に仕えていた六代将軍家宣がお亡くなりになって、3歳の家継が将軍職についています。
家宣がなくなる直前に、退官を申し出たけれど、思いとどまっていましたが、再度お暇をいただくことを申し出ると、間部詮房は全力で止めます
老中たちを巻き込んで、慰留をお願いして、白石もそれならばと続ける決意をします。
貨幣の改鋳のことは、故家宣と約束していたのでどうしても実現したいと思っていた様子
白石はここまで自分を必要としてくれていることに、内心嬉しかったのだと思います。
面倒な問題が持ち上がると、間部はべったり、白石に頼ります。
正徳4年 正月に有名な「江島生島事件」が勃発します。でも【折たく柴の記】には、事件のことは全く出て来ません。
江島の事件は白石には意見を求められることはなかったのでしょう。間部はそれはそれは忙しかったに違いありません。
間部に色々と諮問されますが 1つだけ
正徳4年 11月 南明院殿(家康の正室 豊臣秀吉の妹朝日姫)に供米田五十石を寄付されました。
家康公100年忌にあたり 前将軍家宣の御意志であった。
【折たく柴の記】によると、”正式に御台所とお呼びしたのは、南明院殿だけでありました” とあります。
正式に御台所とお呼びした この解釈を勉強会仲間で勝手に想像しました。
朝日姫の前に 築山殿がいたよな〜 信康や亀姫のママ
正室は 築山殿と朝日姫だけだったようです
この時代まだ家康の地位は微妙 46歳の時に 秀吉の妹 朝日姫と政略結婚
48歳 | 1590 | 《江戸城に入城》 | |
58歳 | 1600 | 《関ヶ原の戦い》 | |
61歳 | 1603 | 《征夷大将軍となる》 |
2年後に江戸城に入城し着々と徳川の地位を確立していく。
この時 朝日姫が正妻となったので、御台所と呼ばれるようになったのだろうと思う。
つまりは、築山殿の頃(家康15歳の時に結婚)は、家康側がまだ御台所と呼べる立ち位置ではなかった。
正室と御台所の違い
白石の時代からすると、家康の頃は、曽祖父くらいの時代 近い・・・
来年の大河は 「どうする家康」 勉強しながら見たいデス(鎌倉殿も勉強中www)