『折たく柴の記』勉強会6回 2022/05/06

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新井白石『折たく柴の記』を読み始めて、6回目の勉強会
読みづらい、候文 まだ慣れない

白石の壮年期 土屋家改易となり浪人 堀田家に仕えるも、例の稲葉正休により殿中で刺殺される事件により、出仕も怪しくなってくる。そして浪人。やっと甲府藩に出仕が決まる。こんなところのお話
要約はPDFにしましたが、大切なところを端折ってしまっているかもしれません。
テキトーなのでご容赦ください

折たく柴の記06

堀田家に出仕したものの2年で暗殺事件、その頃堀田家の家臣の娘と結婚しているけれど、そのことについては、全く書かれていない。子供が産まれたことにより、生計を立てなくてはならなので、堀田家への辞職願が聞き届けられた。
豊綱への進講が始まる時、長女が亡くなっているけれど、疱瘡で亡くなったとあるだけで、他には何も書かれていない。『柴の木』は子孫のために書かれているが、家族のことについての心情は皆無。

本所で私塾を開くのも生活のためであり、本望ではなかったはず。

37歳で、甲府藩に出仕する。木下順庵の推挙によるものだが、木下先生は俸禄の少ないことに不満であった。甲府藩は林大学頭から儒臣を採用したかったらしい、この辺りは想像でしかないけれど、綱吉の肝煎りで立てた、大学頭家(3代林信篤から大学頭が設置され、上野不忍池にあった家塾が湯島に湯島聖堂となる)から、採用したかった、つまりは綱吉に忖度したのではないだろうか?

白石は、俸禄のことよりも、甲府藩に出仕できることを選んだ。きっと内心嬉しかったのだろうと思う。

子供の頃から英才教育を受けたわけではない白石、独学で浪人時代に勉強に励む、きっと生活が苦しくても勉強することが楽しかったのだろう。木下先生から学び、自分のすすべきは学問の道だと思っていたのだろう。権力欲、出世欲などはないから、俸禄が少なくとも、君主に教える立場は白石にとってはこの上ない事だと、綱吉の生類憐れみの令などの悪政を見ながら、正しいことを君主に伝えたいと思っていたのかもしれない。

お目通りから進講について、書物や期日などが書かれているが、これは「白石日記」によるものだと思われます。『柴の記』は子孫に知らせるために書き、日記はあくまで業務日誌のような感じらしい。

それにしても、綱豊(家宣)の勉強熱心なこと、白石も共に、凄すぎるw
将軍職は実質3年、私にとっては「生類憐れみの令」をキッパリ廃止したのは見事だと思う。
綱吉が遺言で「生類憐れみの令」は厳守するようにと言い残したにもかかわらず、死後2週間で取りやめたそうな

いよいよ、来週で、『折たく柴の記』の上が 終わる予定でございます。



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