勉強会は着々と進んでおりますが、まとめが追いついていませぬw
結構内容濃くて面白い、「折たく柴の記」自体はそれほどでもないのですが、関連事項でワサワサ調べて楽しんでおりまする
6/24(金)第13回 9:00〜リモート
◆奈良の両門の争いについての意見書
◆大成殿参拝の次第を考えること
◆京都へのお使いを命ぜられ、出立のこと
◆御即位式の拝観
◆天皇元服の儀式拝観、琉球使節に伏見で会見
◆朝鮮使節進見などの次第を奉る
◆叙爵され、筑後守に任ぜられる
◆川崎に行って施設を迎えること
奈良の一乗院と大乗院との争い 家康の時代からの御朱印をめぐる騒動なんだけど、白石の明快な解決 他の寺院の争いにも影響したと思われます。
当時、同様の寺院内の揉め事は多く、わかってはいるけれど、将軍の交代で時世が変わると、何か変わるんじゃないか?と 騒動が勃発する。その典型的な例なのかもしれない。
天皇の即位の儀式を拝観するという京都へのお使いに出かける、それに付随して、金や時服を賜る。果たして白石は、馬に乗っていったのか??? 話題にあがったけれど、乗り物や訪れた地についての記載なし。(そこが知りたいのにな〜と皆々w)
11/11に即位の儀を拝観
正月天皇の元服の儀が終わってから江戸に帰るように仰せつかる。白石にとっては、天皇の儀式を直接拝観できるのは、この上ない出来事であったであろう。
白石のいない間に、荻原重秀が加増されている。(本文にはない、おばちゃまたちのお話w)江戸に白石がいたら、激怒するだろうから、正月まで京都に居てもらおうと思ったのか???
従五位下に叙爵され、旗本になる。官職とか官位とか調べても調べても覚えられない
7/1(金)第14回9:00〜リモート
◆朝鮮書複号のこと
◆朝鮮使節進見の儀式の改定
朝鮮通信使の事、秀吉の時代からもっと遡り足利将軍時代からのことを白石は語る。
将軍を【大君】から【国王】とすること。白石の正しい説明がされる。
ここで出てくる、「柳川一件」対馬藩が朝鮮との貿易を全て仲介していた。秀吉の朝鮮出兵から年を経て家康の時代になる国交を始めようとする両国
朝鮮が、家康から先に国書を朝鮮に送るよう要求したが、対馬藩が国書を偽造、朝鮮は偽造を疑いつつも回答使(対馬藩は通信使と偽る)を派遣する。
対馬藩は、朝鮮との国交をうまくするために偽造や改ざんを繰り返す、当時の家老・柳川調興が藩主宗義成から独立して、旗本への昇格を狙って、藩主の偽造・改ざんを幕府に訴える。
この偽造・改ざんの中に 日本国王がある。
柳川調興は、家光の決断により、津軽に配流
とは言え、家臣7名の共を許され、弘前城南西に広大な屋敷を与えられ、藩主津軽信政の敬意を受け賓客として扱われていた様子
柳川を失った、対馬藩は外交の腕をもがれた様子で、立ち直るのが大変だった様子。それでも幕末・明治まで一手に、朝鮮との外交を担っていた。
おばちゃまたちの話題は、朝鮮通信使が400名も連れて大行列で対馬から江戸までやってくる。煌びやかな衣装で練り歩く、道々のお泊まり寺は新築され、豪華なおもてなしを受けていた。
当時の日本と朝鮮の関係は、中国朝鮮は文化学問の上で日本が学ぶことが多かった、まだまだかなわなかったのだろうけれど、白石は自慢の漢詩などで対応した。
国王 大君の件も対等を意識して、饗応についても、対等になるよう改定していった様子
江戸では饗宴の儀式の後 曲芸や見せ物などあったらしい。
果たして、日本が朝鮮に同じように通信使を派遣した場合、どんな見せものができたのだろうか?
羽川藤永画
1748年(寛延1)に江戸を訪れた第10回の通信使を描く作品とされる
*おまけ *
馬に乗る通信使の一員(小童)に対して日本人が紙を掲げ、揮毫を受けている様子
こんなこともあったらしい