『折たく柴の記 』中に入りました。
5/16(月)9:00〜 5/27(金)9:00〜 2回のリモート勉強会のまとめを書きます。
とうとう、家宣が将軍となり、今まで儒者として家宣公に帝王学を指導してきた白石の活躍が始まりまし。荻原重秀も登場します。
たった3年間の家宣治世、綱吉が亡くなった宝永6年(1709)1月〜 家宣が亡くなる 正徳2年10月まで、その後も家継に支えるが、一番充実していた時期かもしれない。
幼い頃から学問をしていたわけではなく、土屋家が改易となり堀田家に士官 そして浪人 木下順庵の門弟になる この時代に自力で学問に励み、やっと甲府藩主綱豊に仕えることになる。家宣(綱豊)が将軍になったときは、きっとものすごく ものすごく嬉しかったに違いない。
『折たく柴の記』中 弟8・9回勉強会 (クリックで別窓で開きます)
100年後も生類憐れみの令を行なっていてほしいと綱吉が遺言に残したことを、お棺の前で、遺言に関わった人を集めて、廃止することを話し合う。それも、穏やかな話し合いで行う 家宣さすがだわ〜
結局 生類憐れみの令はすぐに廃止となる。
綱吉のイエスマンだった柳沢吉保は、あわよくば家宣のお気に入りになろうとしたけれども、果たせず それでも、すっぱり切られたわけでもなく、やんわり、隠居を促される。ここでも家宣さすがだわ〜www
御石棺の銘のこと、林大学頭信篤は、代々自分の家で作ってきたが、白石の銘文の方が良いと言われてきっと 腹が立っただろう。信篤を敵に回した白石 これからも対立があるだろうと思われます。
閑院宮説立の話は、家宣将軍宣下の儀の話の時に白石が意見書を提出した。設立されたのは享保2年 吉宗の時代になる。 この閑院宮設立については、白石の功績として覚えた1つ
閑院宮の設立は 現在の天皇につながります。
そしてそして、大敵 荻原重秀登場!
家綱時代から、荻原は勘定方に列し、綱吉の時代に勘定奉行
白石との対立が始まります、火の子と呼ばれた白石は、荻原との話になると熱くなったのではないかしらん。
どうしても、金銀貨幣改鋳を行いたい荻原 貨幣改鋳は悪であると白石との対立、家宣公は改鋳を行わない政策を進めました。
『折たく柴の記』では、白石が貨幣改鋳について述べていますが、荻原重秀は文書を残していません。白石は、正徳の治を行った勝者であるために、改鋳をしないことが良いことだったように書かれていますが、吉宗公の時代になると、デフレを起こし経済停滞を引き起こしたと言う説もあるようです。
おばさん3人 で 、江戸時代の1文の計算もままならないのに、経済を語っちゃいましたw 改鋳については、調べてみてもよくわからないと言うのが実態です。