4/12(火) 分後半と4/29(金)を要約はPDFにしました。
やっと白石が明暦の大火の直後に生まれました。火の子と呼ばれたそうです。
幼い頃 土屋の殿にいつもお側におかれていたそうな、それは、白石が幼くての聞き分けの良い子で悪戯なんぞしなかったからでしょう。殿はペットのように白石を可愛がった。そして白石の父もお家にとっては、何の害もない人柄で、お家騒動などに発展しそうもない人物だったからでしょうか?
9歳で父の手紙を代筆、13歳で殿の手紙おも代筆。殿の下には右筆などはいなかったのか???
幼い頃に大名に養子に欲しいと言われ、これは土屋の殿が断った。土屋の家を去った後には、商家の養子の口を2度も断っている。医者になるように言われたことも断っている。白石自身、武士として出世したかったのかもしれない。
白石のこうした拒絶の態度には、学問に対する節操の上から、潔し年なかったのかもしれないし、また「生きて封候となる」というごとく、武士階級の一員として立身出世したかったのかもしれない。それにしても、貧困の白石が富の前に容易に膝を屈することなく、時勢に順応してただ生きてゆけば良いと言う通俗な腐儒と異なっていたことは、現代人にとっても暗示的であろう。と評価されたのは伊豆公夫氏である。(『新井白石』第1編2,40-41頁)これとは別に、大石慎三郎氏は、瑞賢からの申込を断ったと言うこの話は白石の潔癖さを示すものとして受け取る人が多いようだが、「実際は商人は卑しいもの、為政者はこれをおさえるべきもの、と言う当時の経世家たちの考え方の反映であったと考えた方が土肥等である。それは彼がのち、天下を握ってからの基本的な政治姿勢である”勧農抑商”政策と無縁ではない」(岩波新書『元禄時代』Ⅴ、174-175頁)と評論されている。
叢書・日本の思想家14 ,新井白石. (進藤英幸著)より
私は気がつかなかったけれど、商家の養子のエピソードや、これから出てくる、加賀藩への出仕の話を友人に譲る話など、「柴の記」に書かれていることからひろまっている。実際相手方や白石の周りの人からの話としては聞こえてこないようだ。
土屋家を2分して家臣たちが争う場面、白石は勘当され家に閉じこもっていたにも関わらず、戦いに参加するつもりだった事。質問されたら、こう答える、自分の知恵を絞って、周りを説き伏せる 考えを巡らせて、万事自分の身の置き方を考えて行動する(まあ、この時は戦い準備の支度をして、布団をかぶって寝ていたのだけれど・・・)
白石はそう言う人なのである。
どうも、勉強していくにつれ、白石は怒りっぽく、嫌味な感じが続くけれど、エピソードやら、周りの環境など、面白いことも多い。
やっと 明暦3年2月に「火の子」と呼ばれる白石が誕生、22歳ごろまでの話 でした。