2/5(土)
土日は朝寝坊すると決めています、朝ウオークに行かないので、ちょっと長めに歩いたり走ったり
我が家から、与野のイオンモールまで行ってお茶してバスで帰ってこようと計画 実行
帰りはバスが行ってしまったばかりで、イオンモール激混み(本当に不要不急外出自粛なのか???)お茶もできそうにありませんでした。仕方ないので、さいたま新都心駅まで歩いて電車で帰ってきました。
途中 与野の体育館あたりから鴻沼用水路の脇の道に入る。桜並木になっていて、桜の季節は見事だろうな〜と思いつつ進む、桜の木の根っこが盛り上がっていて、側道を通り辛くしている箇所もありました。赤山橋の辺りで、石塔を発見、見ると【享保】の文字あり、画像にとりましたが、肉眼でも読むのは難しい感じです。
帰ってから調べました。
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石橋供養塔 -
享保十一丙午天 初夏廿有三日
中央区本町東4丁目の、赤山道が鴻沼川を渡る赤山橋の西詰南側に存在しています。
高さは234cm、幅38cmで、上部は唐面取りを施した石柱です。
正面は上部に薬研掘りで「石橋供養塔」と大書し、下部には導師や願主の名を刻んでいます。
右側面には5行10段にわたり、下落合村、上落合村など50の村名とともに、「石工高内源太郎」などの個人名が、左側面には 5行10段にわたり、円阿弥村、八王子村など50の村名とともに、浦和町や与野町の個人名が見られます。
また、背面には「享保十一丙午天(1726) 初夏廿有三日」とあるほか、いずれも付近の寺院名と個人名、数ケ村の村名を刻んでいます。石橋の建立年代からすると、見沼干拓と並行して行われた高沼干拓の直前であり、「高沼」に流れ込む切敷川への架橋ということになります。
享保11年(1726)4月の「与野領絵図」に該当する石橋の記載がありますが、この石橋供養塔の建立も享保11年4月であり、絵図作成と石橋建立は同年月となります。
銘文中、100に及ぶ村名は勧化(寄付)に応じた村々で、現在の中央区は言うに及ばず、桜区、西区、北区、大宮区、浦和区、緑区、南区、上尾市、川口市、戸田市という広範囲にわたっています。
この石橋の重要性や利用者の範囲を反映したものと考えられます。なお、これ以前の元禄7年(1694)の村絵図にも同じ場所に橋が描かれており、以前からこの場所に橋が架けられていたことがわかります。
現存するこの石橋供養塔は、確認できるものでは市内最古の建立です(市内の石橋供養塔リストは下の添付ファイルにて)。
享保年間、吉宗は新田開発開墾に力を入れていました、見沼干拓、高沼干拓等々で、犠牲になった人たちの供養もあるだろうけれど、寄付や勧化の人の名を明記してあるのでしょう。 この地、赤山橋が重要ポイントであったのだろうと思われます。
うーーーーむ、発見でござりますw
イオンモールからさいたま新都心駅まで歩き、電車で浦和へ
電車だとすぐに着いちゃうんだな〜と思いつつ、主人に電話してラーメンを一緒に食べて帰りましたデス