鎌倉殿の13人4回 ご覧になりましたか??
頼朝が挙兵するにあたり、軍勢が集まらない、その中で佐々木秀義お年寄りでフガフガいってた人(頼朝とは母方の従兄弟にあたる)の4人の息子定綱、経高、盛綱、高綱が出てきました。
高綱は宇治川の戦いで梶原景季と先陣争いをした人、その兄が守綱
その守綱ゆかりの寺が守光院になります。
何でこんな話をするか?と言うと、主人に浦和の太田窪の守光院って、頼朝の挙兵に関連する人のお寺らしいよーと話をしていたら、それうちのお墓ある寺だよと…
今はお墓の中を引っ越して、主人の実家のそばにお墓を移しています。
守光院にあるお墓の中には誰も入っていないのですが、いづれ主人も私も入る予定です。
名前うる覚えでした、しょうがない嫁でございます。
正式な名称は護国山守光院(ごこくさんしゅこういん)です。 当時の開基は冶承四年(1180年)源頼朝が伊豆に挙兵したとき、その軍勢を集めるため当地木崎庄太田窪に要害を構えた佐々木三郎守綱です。
佐々木三郎守綱は宇治川合戦のとき先陣争いで有名な佐々木四郎高綱の兄に当たります。 守綱は当地に留まること五ヶ月、引揚げるに当たり小堂宇を建立し、持仏の薬師瑠璃光如来と家臣の阿弥陀如来を安置し、寺号を護国山守綱院と号しました。 開闢後四世紀を経た天正年間に至り、小田原の北篠氏の家臣下総国の国主千葉介胤がこの木崎庄を領し、家臣の木内右衛門にこの地に陣屋を構えて統治せしめました。木内氏は当時荒廃している寺が佐々木三郎守綱が建立した由緒ある寺であることを知り寺僧と協力してその再興を計りました。
吾妻鏡によれば、およそ5年にも及ぶ源平合戦は,1180年(治承4)8月17日に佐々木4兄弟の次男経高が放った1本の矢から始まったとされます。