六義園散歩

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六義園散歩9/27(土) 参加してきました。

浜離宮 小石川後楽園 (新宿御苑は都合で11/22に延期)六義園と4回の毎日文化センターの企画

都内には元武家屋敷が色々な形で残ってます。

自分で調べていっても良いのですが、説明付散歩となると楽しめるかな~と参加。

カラッとしたお天気、前回の小石川後楽園では暑くて厚くて・・・でしたが

今回は途中熱くなることもありましたが、気候的には良好の状態。

デング熱の心配もあり シューーーーッ(蚊よけ対策スプレー)を先生が用意してくださいました。

六義園

六義園は、徳川五代将軍・徳川綱吉の側用人・柳沢吉保が、自らの下屋敷として造営した大名庭園である。1695年(元禄8年)に加賀藩の旧下屋敷跡地を綱吉から拝領した柳沢は、約2万7千坪の平坦な土地に土を盛って丘を築き、千川上水を引いて池を掘り、7年の歳月をかけて起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水庭園を現出させた。

「六義園」の名称は、紀貫之が『古今和歌集』の序文に書いた「六義」(むくさ)という和歌の六つの基調を表す語に由来する[1]。六義園は自らも和歌に造詣が深かった柳沢が、この「六義」を『古今和歌集』にある和歌が詠うままに庭園として再現しようとしたもので、その設計は柳沢本人によるものと伝えられている。

1702年(元禄15年)に庭園と下屋敷が一通り完成すると、以後将軍綱吉のお成りが頻繁に行われるようになる。その回数は記録されているものだけでも実に58回もあり、吉保の寵臣ぶりもさることながら、この庭園自体が当時にあっても天下一品のものと評価されていたことが窺える[2]

柳沢家は次の吉里の代に甲府から大和郡山に転封となるが、六義園は柳沢家の下屋敷として幕末まで使用された。時代が下るにつれ徐々に荒れはしたものの、江戸を襲った度々の火災で類焼することもなく明治を迎えた。

明治の初年には三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎が六義園を購入、維新後荒れたままになっていた庭園に整備が施され、このとき周囲が今日見る赤煉瓦の塀で囲まれた。その後は関東大震災による被害もほとんど受けず、1938年(昭和13年)には東京市に寄贈され、以後一般公開されるようになった(有料)。東京大空襲の被害を受けることもなく、造園時の面影を残したまま今日に生き延びた六義園は、1953年(昭和28年)に特別名勝に指定されている。

ウィキペディア 六義園より

説明の随所に和歌が登場、模して作られたという「紀州和歌の浦」のことも知らないと話にならない・・・
博学と財力との融合
少しだけでも江戸の先人たちの華やかな知識を学びたい・・・

駒込富士神社

駒込富士神社  駒込富士神社(こまごめふじじんじゃ)は、東京都文京区本駒込にある神社。祭神は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)。

建立年は不明。拝殿は富士山に見立てた富士塚[1]の上にある。江戸期の富士信仰の拠点の一つとなった。現在に至るまで「お富士さん」の通称で親しまれている。

天正元年(1573)、本郷村の名主の夢枕に木花咲耶姫が立ち、現在の東京大学の地に浅間神社の神を勧請した 。寛永5年(1628)加賀前田氏が上屋敷をその地に賜るにあたり、浅間社を一旦、屋敷の外の本郷本富士町[2]に移し、その後現在地に合祀した(時期不詳)。

江戸時代後期には「江戸八百八講、講中八万人(えどはっぴゃくやこう、こうちゅうはちまんにん)」といわれるほど流行した富士講のなかでも、ここは最も古い組織の一つがあり町火消の間で深く信仰された。火消頭の組長などから奉納された町火消のシンボルマークを彫った石碑が数多く飾られている。

初夢で有名な「一富士、二鷹、三茄子」は、周辺に鷹匠屋敷があった事、駒込茄子が名産物であった事に由来する。「駒込は一富士二鷹三茄子」と当時の縁起物として川柳に詠まれた。

縁日の山開き(現在6月30日~7月2日)では土産の茄子が人気だったが、現在では周辺の宅地化により茄子の生産は全くなく、土産の茄子も売られていない。鷹匠屋敷跡は現在、駒込病院が建っている。

ウィキペディア 駒込富士神社より

蚊の襲撃がものすごかった~w

吉祥寺

kitijouji01歴史

室町時代1458年(長禄2年)に太田持資(太田道灌)の開基で江戸城内に青巌周陽を開山に招いて創建した。道灌は、江戸城築城に際し和田倉付近の井戸から「吉祥」と刻銘した金印を得、これを瑞祥として青巌を請じて西の丸に建立した。山号はこの地が諏訪神社の社地であったことによる。

戦国時代には古河公方足利義氏の実母で北条氏綱の娘でもある芳春院の位牌が安置されていたという。

のち徳川家康の関東入府にともなって駿河台(現在の都立工芸高校の周辺)に移り、明暦の大火と江戸大火によって現在の駒込の地に移転した。

境内
旃檀林学寮

江戸期には境内に後の駒澤大学となる学寮「旃檀林」(せんだんりん)が作られ、卍山道白が規則を制定して大いに繁栄し、幕府の学問所「昌平黌」と並んで漢学の一大研究地となった。

多くの学寮(カレッジ)・寮舎を備え、常時1,000人余の学僧がいた。各寮には学徳兼備の者が選ばれて寮主となり、寮主はさらに役員を選び、役員によって学問の指導や日常生活が合議によって運営された。

教科目は内典(仏教)と外典(漢学)で、江戸の中期以降は漢学が重視された。そのため僧侶以外でも、寺院に縁故のある旗本の子弟・寺侍が聴講した。

寺堂は近代まで七堂伽藍を誇っていたが、東京大空襲で焼失し、わずかに山門と経蔵を残すのみとなった。

現在は復興され、本堂、客殿、庫裏などが点在する。

墓等

いくつかの譜代大名・旗本の江戸菩提寺であったことから、松前氏広など、通常国許の菩提寺に葬られるはずの遺骸が、諸事情により、当寺に埋葬されている事例もある。
*八百屋お七・吉三郎の比翼塚
*鳥居耀蔵
*二宮尊徳の墓碑
*榎本武揚
*川上眉山(小説家)
*赤松則良 – 森鴎外と離縁し他家に嫁いだ長女・登志子も生家・赤松家の墓に葬られている。
吉祥寺(文京区)ウィキペディアより

赤目不動尊(南国寺)

 

駒込土物店

江戸時代、神田、千住と並び3大青果市場といわれた。
起源は元和年間(1615~1624)といわれる。
当初は近隣の農民が野菜を担いで江戸に出る途中、この地で休むのが毎朝の例となり、
付近の住民が新鮮な野菜を求めたのが起こり。
また、近くの富士神社の裏手は駒込ナスの生産地として有名であり、
大根、にんじん、ごぼうなどの土のついたままの野菜(土物)が取り引きされた。
現在駒込土物店縁起の碑がある。(天栄寺境内)
文京区駒込土物店跡より

本郷通り(お成り街道)と中山道がぶつかる地点。
当時は賑やかだったのかしらん・・・

毎回ですが散歩内容濃かったデス
夢見る獏様 ありがとうございました お疲れ様でした。



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4 Replies to “六義園散歩”

  1. つゆくさ

    マダムのブログが「気ままに江戸♪~」化してビックリ。マダム!江戸検定一緒に頑張ろうね♡

    1. マダム

      三浦さーーーんありがとうございます。極たまに勉強モードになります。今年は、まぐれで10点もらえても合格しそうもありません。

  2. 殿

    土曜日の六義園散歩、お疲れ様でした。
    コメントが遅くなりましたが、今回の六義園関係のブログ、『最近無い、力作』前回の庭園散歩の浜離宮の時より、確実に良いです。
    六義園の風景の中に色々な『意味・曰く・風流な美意識』がたっぷりと、盛り込まれて居るのがわかりました。
    江戸時代の風流人に感謝です。
    マダム、でもね、ブログが素晴らしいですが、あまり『ブログ』に係わり過ぎて、本題の『江戸検』及び、『○○○○ト、激○せ』も頑張って継続してください。いつの日か両方の成功を夢見て!!!

    1. マダム

      殿 ありがとうございます。
      ブロク書くのも結構江戸検の勉強になります。
      ダイエットは激変をその目で見守って下さい。お楽しみに…

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