よみがえる巨大城郭「江戸城」 vol.2

Visits: 245

4月27日(土)第2回参加してきました。
文京大学 生涯学習センター
よみがえる巨大城郭「江戸城」 江戸検1級合格者と巡るその魅力
今回は江戸城

1)江戸城って 江戸時代にポッと出てきたわけじゃないのです。
わかってるけど 桓武天皇からの江戸城そここのところを詳しく~~~のお話。
太田道灌くらいからは、聞いたことあるぞ・・・w

15世紀関東の騒乱で江戸氏が没落したのち、扇谷上杉氏上杉持朝の家臣である太田道灌が1457年(長禄元年)に江戸城を築城した。徳川幕府の公文書である『徳川実紀』ではこれが江戸城のはじめとされる。

道灌当時の江戸城については、正宗龍統の『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』や万里集九の 『梅花無尽蔵』によってある程度までは推測できる。それによれば、「子城」「中城」「外城」の三重構造となっており、周囲を切岸や水堀が巡らせて門や橋で 結んでいたとされる(「子城」は本丸の漢語表現とされる)。『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』によれば道灌は本丸に静勝軒と呼ばれる居宅を設け、背後に閣 を築いたという。『梅花無尽蔵』は江戸城の北側に菅原道真が祀られて梅林があったことが記されている[1]

道灌が上杉定正に殺害された後、江戸城は上杉氏の所有するところ(江戸城の乱)となり、上杉朝良が隠居城として用いた。ついで1524年(大永4年)、扇谷上杉氏を破った後北条氏北条氏綱の支配下に入る。江戸城の南には品川湊があり、更にその南には六浦金沢)を経て鎌倉に至る水陸交通路があったとされていることから、関東内陸部から利根川荒川を経て品川・鎌倉(更に外洋)に向かうための交通路の掌握のために重要な役割を果たしたと考えられている。

1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻め(小田原征伐)の際に開城。秀吉によって後北条氏旧領の関八州を与えられて、駿府静岡)から転居した権大納言である徳川家康が、同年8月1日(1590年8月30日)に公式に入城し、居城とした。このため旧暦の8月1日(八朔)は、江戸時代を通じて祝われることになる。

ウィキペディアより

2)家康から秀忠 家光くらいで ほぼ完成した江戸城 edojou01

edojou02

築城工事の役職

*下三奉行
作事奉行(さくじぶぎょう) – 幕府管轄の建築物の造営や修理をした。作事が建築を表す言葉である事が解る。
普請奉行(ふしんぶぎょう)城下石垣、土木や建築物の地縄張りや基礎工事および上水道の管理
小普請奉行(こぶしぶぎょう) – 城やそれに付随する建物の修理、営繕。
  ・小普請支配(こぶしんしはい) – 小普請をする際に収入が少なく役職の無い御家人旗本を救済する意味も兼ねて臨時雇用しその采配をする役職
小普請役 – 上記の小普請に就いた御家人や旗本のこと。

ウィキペディアより

3)城の天守閣の変遷
天守閣 石垣の 建築家の目から
石垣の石って奥になが~いんだって きちんと揃っているよりも見え方が不揃いの方が強度が高いそうな
ここら辺はとっても難しいお話でした。

ほぼ手書きの資料 先生凄すぎる!



◆◇◆記事を読んだご感想をお聞かせください◆◇◆
  • 素晴らしい (0)
  • 役に立った (0)
  • いいね (0)
  • マダム好き (0)
  • つまんない (0)

One Reply to “よみがえる巨大城郭「江戸城」 vol.2”

コメントを残す