毎朝ウオーキングしています、一向に体重は減りませんけど・・・・

細い路地にいつも気になる、三峰社とある、小さな祠
祠の土台は火山灰で出来てる様子
中山道から少し入った所にあります。
鳥居に刻んである文言は読めません 画像をとって明るさを調整しましたが、名前がかろうじて分かる程度年号はわかりませんでした。

調べている方がいらっしゃいました。
【犬狼物語 其の三百三十二】埼玉県浦和市 常盤・三峰神社の事情

三峯山に参拝していたのは、地縁で組まれる三峯講というのとはちょっと違い、ある組合のグループだったそうです。代表が参拝する「代参講」ではなく、全員で参拝する「総参講」だったようです。
先代の人たちも三峯山に行っていたので、神社に参拝するのは悪い話じゃないし、じゃぁ行ってみましょうかといった程度。特別何かお願いがあって行っていたわけではありませんでした。行楽気分での参拝といったところでしょうか。そしてその習慣も十数年前くらいで終わってしまいました。

http://asiaphotonet.cocolog-nifty.com/blog/2019/05/post-f76352.html

ここから始まり、近所の浦和宿あたりを調べてみました。

浦和宿あるいてみよう マップ

市場通り
品を売る農婦のモニュメント 
説明の碑

市場通り
この通りの北側にある慈恵稲荷の社頭で、戦国時代以来、昭和の初めまで、毎月二・七の日に市が開かれました。そこでは、農産物や各種の生活必需品が取引されました。現在もそのなごりとして、市神様と市場定税があります。
 これにちなみ、昭和55年9月に当時の歴史をしのぶため、市場通りの愛称がつけられました。
浦和市 平成6年3月

説明の碑より

常磐公園
江戸時代初期 浦和御殿と呼ばれ 家康が鷹狩をした時に休んだ場所

浦和宿は幕府直轄領(通称:天領)であった。 徳川将軍家の鷹狩りの休泊所は雅名で「御殿」と呼ばれたものであるが、当時の浦和宿の中心地であった常盤町(旧・浦和宿上町、現・浦和区常盤1丁目)には早期の御殿である浦和御殿が設けられていた。このことが、浦和宿の興りとされている。それ以前は調神社や玉蔵院の門前町として栄えていた。 施設はしかし、近隣の鴻巣宿で文禄2年(1593年)に鴻巣御殿が建設されたのちの慶長16年(1611年)頃には廃止され、以後は幕府直営の御林として管理されるようになった。 当時を伝えるものは明治26年(1893年)の浦和地方裁判所(現・さいたま地方裁判所の前身)建設にともなって姿を消し、現在は裁判所跡の赤レンガ堀を残す公園(常盤公園)となっている。

wiki 浦和御殿

仲町公園
浦和宿本陣がありました。
明治天皇行幸の際に行在所になったことを記念した碑

明治元年(1868年)および3年(1871年)の明治天皇の氷川神社行幸の際には、ここが行在所となった。

wiki 浦和宿

慈恵稲荷神社

慈恵神社の参道入口に「市神様」と「市場定杭」

庚申塔
石碑の上部は富士山?その下に文字庚申塔がある。側面には「富士山・大山・引又」とあり、富士講、大山講の記念碑も兼ねていた。(引又とは志木のことらしい)

旧伊勢講連中 碑
伊勢講の人たちが立てた碑か?世話人田中 伊藤 星野の名前が見られる。
浦和宿本陣は星野権兵衛家が代々務めた。星野とは関係ありか???

成就院
成就院

玉蔵院の末社 慈恵稲荷神社の横にあります。
ここの大銀杏 真っ黄色になって美しい。

   

慈恵稲荷神社 参道入口

中山道に面した慈恵稲荷神社の社頭に「市神様」と「市場定杭」が建てられています。ここは、浦和宿で市(いち)が開催された場所です。浦和の市は、毎月2と7の日に開かれており、月6回行われていました。始まりは定かではありませんが、戦国時代に発達した六斎市の形態を受け継いでいます。市神と定杭を残す市場跡は、全国的にも例が少なく、近世の商業史を知る上で貴重なものです。

さいたま市 文化財紹介 浦和宿二・七市場跡

浦和宿二・七市場跡 説明板
浦和の市場は戦国時代に開設されたものと考えられ、天正一八年(1590)には豊臣秀吉の家臣である浅野長吉から喧嘩口論を禁じた「禁制」が「浦和市」に対して出されています。浦和市は月六回開かれる六斎市と呼ばれるもので、毎月二と七の日に開かれたため(二日・七日・十二日・十七日・二十ニ日・二十七日)「二・七市場」と言われています。
江戸時代 十返舎一九は「代ものを、積み重ねしは 商人の おもてうらわの 宿の賑わい」と詠み浦和の市の賑わいを表現しています。
 また、川口芝の長徳寺住持である龍派禅珠(りゅうはぜんしゅ)は、ある歳の暮れ、浦和の宿で萩、屠蘇(とそ)、麹(こうじ)、膠(にかわ)、未醤(味噌と醤油)、新暦などを購入しています。 
 周辺では蕨(一・六の市)、鳩ヶ谷(三・八の市)、与野(四・九の市)大宮(五・十の市)で市が設けられており、毎日どこかで市場開かれていたことになります。
平成十九年三月二十二日 さいたま市教育委員会

説明板より

『支蘇路ノ驛 浦和宿 浅間山遠望』
『支蘇路ノ驛 浦和宿 浅間山遠望』渓斎英泉

江戸期には東海道武蔵国足立郡浦和郷浦和 
将軍の鷹狩の休息場 浦和御殿がありこれが浦和宿の興りとなっている。
道中奉行による天保14年(1843年)の調べで、町並み10町42間(約1.2km)。宿内人口1,230人(うち、男609人、女616人)。宿内家数273軒(うち、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠15軒、問屋場1軒、高札場1軒、自身番所1軒)
慈恵神社を中心とし南北2町(役0.2k)が市場であった。
宿場よりも市場として発展してきた。
中山道沿いに、ほんの近い所に史跡が沢山残されている。
毎日ウオーキングコースで見ていた場所 通っていた場所でした。

ただ 最初に気がついた三峰神社は市場とは別に庶民に信仰されていた様子。

近年 浦和と大宮 どっちが良いか?とバトルを見ることがあるが 江戸前期は大宮は馬継場だった。そのため問屋が多くその後商業地として、また大宮氷川様を中心に発展してきた様子です。

中山道の前身となる街道は、戦国時代に後北条氏によって整備されたが、その時代には浦和宿の次が上尾宿となり、大宮は両者の中間点で馬継ぎをする場であった。またその街道は、一の鳥居から氷川神社の参道を通り、神社の前で折れて迂回していた。神社の鳥居前、参道沿いに既に町と呼べる集落があったようである。

wiki大宮宿

星野権兵衛家が代々務めた本陣は、敷地約1,200坪(約3,966.9平方メートル)、222坪(約733.9平方メートル)の母屋を始め、表門、土蔵などがあり、問屋場や高札場、自身番所が設けられていた。
本陣元中山道浦和宿本陣星野家の表門だけ、さいたま市緑区大間木2丁目に明治初期に移転されている。
wiki 浦和宿より
これは一度 見学にいかないと行けませぬ

中山道の浦和宿 市場を中心に発展
東側 京浜東北線をまたいでに 三角稲荷(鳥居に明和の記載あり)、本太氷川神社があります。
ここも散歩コース 三角稲荷には旅人をころっと騙す伝説もあります。
長くなるので これは後述します。
中山道東側も地元鎮守さまであった氷川神社、伝説の狐が出没する稲荷と、のどかな集落が形成されていたのだろうと思われます。
小さな祠の三峰神社から、随分しらべることができましたし 妄想も膨らみます。
この調査 まだ続きます〜

浦和ってやっぱり良いわ〜〜〜www



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