わっしょい本に出てくる外国人関連を調べてみました。
嘉永6年1853 | ペリー浦賀に来航 |
安政1年1854 | 日米和親条約締結 イギリス、ロシアと和親条約 |
安政5年1858 | エルギン卿と共に来日したローレンス・オリファントは『エルキン遣日使節録』で浅草の聖と俗について記す |
万延元年1860 3/3 | 桜田門外で井伊大老が殺害される |
万延元年1860 6/15 | アメリカ公使館通訳ヒュースケン他7名が山王祭を 江戸城辰口 作事方常小屋で見物 |
文久3年1863 | スイスから来日したエメエ・アンベール『日本絵図』で浅草について書いている。 |
ヒュースケンが山王祭を見学した時の背景
日米和親条約を締結した、井伊大老が3月に桜田門外で暗殺される
そして攘夷運動が益々膨れ上がってきたときに 6月に山王祭を見学・・・
当時の作事奉行 外国奉行が骨を折ったと思われますが、山王祭に関する事が見つける事ができませんでした。
当時はそれどころじゃなく外国奉行は
万延元年遣米使節(江戸幕府が日米修好通商条約の批准書交換のために1860年に派遣した使節団)にかかりきり
ヒュースケン日記を読んでみました。
ヒュースケンはアメリカ領事館として赴任したハリスの通訳として活躍しています。
日本で日常 自由に行動して日本国事情に通じ通訳以上の働きをした様子。
アメリカの後を追って 次々に条約を求めにくるヨーロッパ各国の使節団に先達の役割を果たし
ことに イギリスのエルギン卿 プロシアのオイレンブルク伯爵から非常に感謝されている。
そして激化してきた攘夷派の標的になり 万延元年12月5日芝赤羽の古川ばたで斬り殺される。
ヒュースケンは自由闊達な青年(万延元年当初29歳)だったらしく 山王祭を見たがったのは分かるような気がします。
山王祭の半年後に殺害されるとは思っても見なかったと思います。
エルギン卿とも親しかったらしい。
詳しく書いてある日記 安政5年 1858年6月8日後から2年半中断 1861年1月1日(万延元年11月21日)の再開8日(万延元年11月28日)で終わる。
つまり肝心の万延元年6月15日の記述はありませんでした。
江戸検を考えると 。
複数年にかかるし 特定できる年号ではないので年代を暗記するのは正しくないと思います。
勉強していくと ここは出ないな?と思われる箇所が沢山出てきますね(笑)
エメェ・アンベールについては次回に続く・・・
先日の 浦井先生の「江戸のこどもたち」の講座で エメェ・アンベールについてお話がありました。
獏先生も2011年に記事をかいていますね 日本の治安・秩序の良さ
江戸樂アカデミーに出たり、獏さんの散策・講座に出ると、江戸検のお題以外の話やエピソードの方に興味がわいて、どんどん道が外れていくのです。こんな事絶対に出ないよ~と言う所の方をよく覚えていたりして…。道草の方が面白いってことですかねぇ~(´Д` )
つゆくさ様
道草もいろんな事がわかってくると楽しくなる。
江戸楽講座もそうたけど前より楽しくなって来ました。
コレって進歩だよね〜