今日の*ショパンサロンは ヨハン・ネポムク・フンメルのお話と演奏でした。
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*ショパンサロン
ピアノ名曲サロン~お話と演奏~ 作曲家 中山 博之 (NHK文化センター さいたまアリーナ教室)
中山先生の講座を勝手にショパンサロンと呼んでます(笑)
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フンメルの生涯は以下 ウィキペディアをご参照ください。
先生 ほぼ忠実にウィキペディアとおりお話してたなあ~w
フンメル プレリュード op-67
24の全音階で書かれているとの説明
すごーーーっ
24の長調・短調と変調する事に「ここから○○調」と説明をいれて、
最後に全部を通して演奏してくださった。
ピアノのお稽古の時 ♯ ♭の位置や数を数えて練習したけど
てんでダメだったな~
比較するにもレベルが違いすぎる、短い曲中 全音階を変調させて入れた曲 よく弾ける・・・・
演奏曲
フンメル ピアノソナタ op-13
ショパン プレリュード op-45
私にとっては未知のクラッシックの世界
中山ショパン先生の楽しいお話 クラッシックをこんなに楽しく語れるのも才能なんだろうなあ・・・
そして 練習の賜物であろう技術 知識
基礎を知らない私にとっては 新鮮なお話の数々・・・
今日も仰天いたしました。
本日はこんな出で立ちでございました。
ヨハン・ネポムク・フンメル
ポジョニ(独語名プレスブルク、現スロヴァキアのブラティスラヴァ)に生まれ、指揮者で弦楽器奏者でもあった父・ヨハネスに音楽の手ほどきを受ける。8歳のとき、アウフ・デア・ヴィーデン劇場の指揮者に就任した父に従ってウィーンへ移り、モーツァルトの家に住込みで2年間に渡ってピアノを師事。
1789年から父と共にヨーロッパ各地を巡演し、神童として喝采を浴びた。1793年ウィーンへ戻り、ウィーン音楽院にてアルブレヒツベルガーに対位法、サリエリに声楽作品、ハイドンにオルガンを学び、またベートーヴェンと親交を結ぶ。
1804年、ハイドンの推薦でエステルハージ家のコンサートマスターに就任。ハイドンが引退すると宮廷楽長となり、1811年までこの地位にあって劇作品や礼拝堂用の宗教作品を手がけ、少年聖歌隊の指導や楽団の指揮にあたった。
辞職後ウィーンに戻り、ピアノ作品、室内楽、劇作品の創作に専念するが、1814年、妻・ロッケェルの後押しもあってピアノ奏者として復帰、ウィーン会議に出演しセンセーションを巻き起こすなどめざましい活躍を見せる。1816年よりシュトゥットガルト、1819年よりヴァイマル宮廷の楽長を歴任する一方、作曲のみならず出版、演奏など活発な活動を展開して、ゲーテとともに芸術の街・ヴァイマルの発展に貢献した。ピアニストとしては1830年のパリ・ロンドン演奏旅行でキャリアの絶頂を築いた。1834年のウィーン旅行を最後に病のため演奏活動に終止符を打ち、3年間の闘病生活の後、任地ヴァイマルで息を引き取った。葬儀に際しては師匠モーツァルトの「レクイエム」が演奏され、同地のワイマール歴史的墓地に埋葬された。
生前にあっては、ヨーロッパ最高の作曲家、ピアノ奏者の一人に数えられ、ベートーヴェンと並び称される巨匠の一人として音楽界に君臨した。フランツ・シューベルト、フェリックス・メンデルスゾーン、カール・ツェルニー、フレデリック・ショパンらと交流を持ちかつ多大な影響を与え、ルイーズ・ファランク、フェルディナント・ヒラー、アドルフ・ヘンゼルト、ジギスモント・タールベルクらの優れた弟子を通じて、19世紀全般のピアノ奏法に大きな影響を与えた。演奏会においてはオペラなどの主題による即興演奏を得意とした。世紀の変わり目にあって古い職人気質と新しい企業家との両面を合わせ持ち、音楽市場の動向に敏感で、流行作家として成功すると共に当時はまだ不十分だった著作権の 確立のために奔走した。著作には「モーツァルト回想録」、「自伝」、「ピアノ奏法の理論と実践詳論」などがある。あらゆる演奏媒体を通じ、職務のためにま たフリーの立場で、幅広いジャンルに作品を残した。形式的にはウィーン古典派の最晩期に属し、ホモフォニックな構造とイタリア風の装飾的な旋律が見られ る。
フンメルの名は死後から忘れ去られ、20世紀までは一部の曲を除いて知られていなかったが、近年その研究が進み、演奏・録音も増えてきて、この時代の作曲家にあっては人気を勝ち得ている。
ウィキペディアより