鎌倉殿と13人・工藤茂光

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工藤茂光

大河ドラマ 【鎌倉殿の13人】ご覧になっていらっしゃいますか?
幼い頃から大河を見るという習慣がないため、今までほとんど見ていません。江戸好きの皆様の大河の話を聞くと、まるでわからない状態です。

そもそも時代劇を見ない時代小説を読んでないというハンデがありながらの江戸の勉強はそもそも甘かったのだろうと思っています。

今年は鎌倉時代中心、北条義時が主人公、三谷幸喜脚本です

江戸の勉強をしていると、平安鎌倉の歴史を町人でさえよく知っています
浮世絵や歌舞伎等々、いろんなところに出てきます。

頑張って、勉強しながら見るつもりでいます。

4回が放映されました。
時は以仁王が平家追討の令旨を掲げ 源頼政と兵を挙げるが数日で平家に鎮圧される。頼朝は挙兵には乗らずに静かに様子を伺う。
伊豆では平家に息のかかった山木兼隆が目代に就任、徐々に平家への不満が高まっていく。
頼朝挙兵治承4年(1180) 頼朝34歳 義時18歳
頼朝挙兵を決意するも、兵が集まらない
佐々木4兄弟は、集合に遅れる、ドラマの中では、佐々木4兄弟の父佐々木秀義がフガフガ言ってるし、「太り過ぎでは?」と兵の集まりの悪さを強調していました。

太り過ぎと言われた 工藤茂光調べてみました。

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工藤 茂光(くどう もちみつ/しげみつ)は、平安時代末期の武将・豪族。藤原南家の流れを汲む工藤氏の一族。狩野氏の祖であり、狩野茂光(かの[1]-)とも呼ばれる。

生涯

勢力範囲は山がちではあったが、伊豆国を代表する牧草地だった牧之郷を領有し良馬を多数有したため伊豆半島最大の勢力を築くこととなった。
伊豆大島を所領としており、保元の乱(1156年)で大島に流罪となった源為朝の監視役となる。やがて為朝が流人の身でありながら周辺諸豪族を切り従えて自立の動きを見せたため、嘉応2年(1170年)にこれを追討し自害に追い込んでいる。

治承4年(1180年)、同じく伊豆国において流人生活を送っていた源頼朝が反平家の兵を挙げると頼朝の下へ馳せ参じる。石橋山の戦いで平家方の大庭景親・伊東祐親らと交戦するも敗れ自害した。一説には、茂光は肥満体であったため思うように走ることができず、周囲の足手まといになることを嫌い、外孫の田代信綱に懇願して介錯されたともいう。

狩野氏は古代から安土桃山時代の小田原征伐にいたるまで武家として活躍し、末裔が現代まで伊豆に多数残り、伊豆名門の一つである。後北条氏に仕えた狩野泰光・狩野一庵や、画派の狩野派らは、茂光の子孫である。

工藤茂光
時代 平安時代末期
生誕 不明
死没 治承4年8月24日(1180年9月15日)
別名 狩野茂光、工藤介、伊豆介、狩野介
主君 源頼朝
氏族 工藤氏、狩野氏
父母 父:工藤家次(狩野四郎大夫家次)
兄弟 伊東祐家
義兄弟:工藤祐継、伊東祐親
子 宗茂、行光、五郎親光、田代伊豆守為綱室
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A5%E8%97%A4%E8%8C%82%E5%85%89

太っちょ工藤茂光は石橋山の戦いで、親族伊東祐親と戦い自害(この時北条義時の兄宗時と一緒)江戸時代の最大絵師集団 狩野派の祖であった。

工藤?もしかして蘇我兄弟の仇討ちに関係していないか???
義兄弟に 工藤祐継とあるではありませんか!!!
つづく



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