老中・松平定信 大忙し
オロシアは蝦夷にきて、江戸へ通商を求めてくるし 武家伝奏は再び尊号一件について、勝手に光格天皇が父・閑院宮に「太上天皇」の尊号を送ると言い出す
定信は怒り心頭
オロシアを江戸に入れてはならぬ と 立ち上がって言い放つ
武家伝奏を江戸に呼び出し、禁裏御料を打ち切ると脅す、天皇は諦めて了解
定信は御公儀と朝廷に不和を作ったと公家に処罰を与える
初めて 通商を求めに 漂流人・大黒屋光太夫を従え エカチェリーナ2世の親書を携えやって来た これ勉強しましたよね〜 大黒屋光太夫のロシア船に助けられた壮絶なロシアの旅 何人もの人が亡くなっていった ここは全く描かれていなかった
尊号一件については、一橋治済が家斉の父として 大御所の尊号を・・・という件は話題になりませんね
本多忠壽 松平信明は、一橋治済に 定信の政を言いつけに行きます
治済は全く話を聞かずに 市中で評判の 難波屋おきたの錦絵を見せてこれを知っているか?と尋ねる
本多らは市中 難波屋へ行き、物価高騰の現実を見る
柱に「おひさ渡し百文」と書かれています そして列には治済も並んでる
老中評定の場
上様にお叱りを受けた、「政を真に考えておるのは定信だけではないか」 今後、越中守に従うと定信にひれ伏す他の老中たち
本多忠壽 松平信明は目配せ さては、一橋定信に入れ知恵されたな
本多は、定信に「おきた」の錦絵を見せて、市中の物価が高騰していることを告げ これは田沼病の再来ではございませんか???
定信 絵を見て「また、あの者か」
もうこの話は寛政5年に入っています
歌麿と蔦重 西村屋
尾張・永楽屋で店主と仲良しになった蔦重
その間に 母”つよ”が亡くなる
江戸に帰ってから、”つよ”を偲ぶ会を催す 世話になった人々が集まり 吉原から駿河屋・次郎兵衛兄さん・りつ が来てくれた 吉原も景気が悪いらしい
看板娘の話から、りつに吉原芸者”とよ雛”の絵を出さないかと打診
明けて寛政5年正月
店の前では、餅つきなど にぎにぎしい 凧を持つ子供も見える
身上半減で失った畳も入れられる 蔦重が書物問屋になったことを話す

看板娘の大ブーム
この経済効果を商人が見逃すはずはなく、一般の娘を描くことを蔦重は請け負う
当然 歌麿は大量には描けないと反発
もう絵だけの話じゃなく、歌麿の絵は江戸の不景気をひっくり返そうとしている
蔦重は弟子に描かせるのも ちょっとした方便と話す
子が出来たと蔦重に話す”てい”
あたまが痛い様子を心配する蔦重 母上様の生まれ変わりの子 頭痛はその知らせ 母上様と同じく 人懐っこく、賢い子でしょう
大当開運先生と相学仲間が訪ねてくる 観相(人相見)家とのことだが、水野南北という人らしい(当時、日本一の観相家といわれ、現代においてもその著書で観相を学ぶ者は多い)
相の字を書き入れるなと苦情
史実は以下の通り 明らかではないとのこと
歌麿の家に西村屋が訪ねてくる
2代目西村屋・鱗形屋の次男万次郎も一緒 万次郎は歌麿と一緒にやってみたい仕事を次々と提案 歌舞伎役者・中村莟玉(かんぎょく)演技に歌舞伎出ちゃってる(笑)調べたら 梨園じゃなく一般家庭出身らしい 鱗形屋・愛之助と一緒
西村屋は錦絵の版元 多くの錦絵を出版している
蔦屋さんとの絡みもあるだろうけれど、考えて欲しいと頼まれる 錦絵の蔦屋の印が歌麿の筆の上にあることで、いいように使われていないか?言われるも、「今日の俺があるのは蔦重のおかげですから」
西村屋の出す錦絵を調べてみた 喜多川歌麿 『忠臣蔵』の 歌麿の名前と西村屋の印は確かに歌麿の名前の方が上になっている
蔦屋の錦絵にも 歌麿の名が上になっているものもある
当時 絵師・摺師・彫師の地位はほぼ同じで版元が一番上と聞いた気がする 蔦重の印の下に歌麿の名前があるのは、デザインの都合上だと思うけれど
本当の所はどうなんだろうか???


鶴屋が蔦屋に訪れ「一枚絵に女郎以外の名を入れてはならない」とのお触れ出たことを告げる 定信が田沼病を恐れて、市中の物価高を抑えるために出した策
蔦重は吉原へ「一枚絵に女郎以外の名を入れてはならない」のならば、女郎の大首絵を出そうと談判に行く、最終的に入金なしで、歌麿の女郎絵50枚で蔦重の借金100両と引き換える事となる
歌麿に相談もなく、事を決めた蔦重
歌麿「借金のかたに俺を売ったのか?」
商人としての蔦重 芸術家としての歌麿
二人の思いは平行線なのかもしれない
歌麿「西村屋さん お受けしますよ 仕事 この揃い物を描き終わったら もう蔦重とは終わりにします」



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