ココのところ江戸のお話ばかりです。
「祭だわっしょい」本を読んでいまます。
富くじ 江戸の三富 谷中感応寺 目黒不動 湯島天神とあります。
感応寺は元禄12年改宗後に富突を始め、宝泉寺と共に幕府の取り締まりをくぐりぬけ、享保15年富突の司法を寺社助成政策の一環に導入した「御免富」を開始する。
谷中感応寺?
感応寺って あの家斉と溶姫の母 お美代さんの???でも 場所が豊島の鼠山だったはず
専行院(美代)wikipedeiaより
実父は内藤造酒允就相、養父が中野清茂とあるが、真の実父は中山法華経寺の智泉院の住職で破戒僧の日啓である。はじめ駿河台の中野清茂の屋敷へ奉公に上がったが、清茂は美代を自身の養女として大奥に奉公させ、やがて美代は将軍家斉の側室になり、文化10年(1813年)3月27日に溶姫、文化12年(1815年)10月16日に仲姫、文化14年(1817年)9月18日に末姫を産んだ。仲姫は夭折したが、溶姫は加賀藩主前田斉泰、末姫は安芸国広島藩主浅野斉粛へ嫁入りした。
家斉の寵愛が深く天保7年(1836年)、家斉にねだって感応寺を建てさせ将軍家の御祈祷所にした上、実父の日啓を住職にさせることに成功している。また、前田斉泰に嫁いだ溶姫との間には前田慶寧が誕生したが、大奥での権勢を固めたい美代は家斉に慶寧をいずれ将軍継嗣にして欲しいとねだり、家斉の遺言書を偽造したとまでいわれている。
感応寺が2つ もやもやを整理するために 時系列で追って見ました。(wikipediaより引用)
谷中感応寺 | 鼠山感応寺 | ||
開創時から日蓮宗であり早くから不受不施派に属していた。不受不施派は江戸幕府により弾圧を受けた。日蓮宗15世・日遼の時、1698年(元禄11年)強制的に改宗となり天台宗 | |||
元禄13 | 1700 | 徳川幕府公認の富突(富くじ)が興行され、目黒不動、湯島天神と共に「江戸の三富」として大いに賑わった | |
天保4 | 1833 | 法華経寺の知泉院の日啓や、その娘で大奥女中であった専行院などが林肥後守・美濃部筑前守・中野領翁らを動かし、感応寺を再び日蓮宗とする運動が起きる。 | |
天保4 | 1833 | 「長耀山感応寺」から「護国山天王寺」へ改号 | |
天保6 | 1835 | 安藤対馬守の下屋敷28600坪余が下賜され、名跡を継いだ長曜山感応寺の建設が開始された。 | |
天保7 | 1836 | 本堂、五重塔、経堂、鐘楼、庫裡、僧坊、書院、釈迦堂、鎮守堂、宝蔵、惣門、山門、中門などの荘厳な伽藍が完成した。 | |
天保12 | 1841 | 徳川家斉が死去し、水野忠邦は天保の改革に着手し、寺社奉行に阿部正弘を任命し、智泉院の手人れを行い、日啓は女犯の罪で召し取られ、遠島を申し渡されたが牢死する。長曜山感応寺は破却を命じられた。廃寺とともに、本尊は池上本門寺へ、祖師像は鎌倉薬王寺へ、伽藍の材木は鎌倉妙本寺へ送られた。 | |
天保13 | 1842 | 富くじ 禁令が出されるまで続けられた |
谷中感応寺と便宜上言われているけれど 実際は天保4年からは天王寺
っで 天保6年には溶姫の母お美代さんが感応寺を建てさせ将軍家の御祈祷所にした上、実父の日啓を住職にさせることに成功した。
鼠山感応寺は家斉がなくなった後 建築からわずか5年で、廃寺に 夢まぼろしの鼠山感応寺ここに詳しく述べられています。
やっと2つの感応寺がスッキリしました。
富くじといえば、落語『宿屋の富』面白いですわ
よく調べたね~✌ そうかぁ~。しかし、俗な私は「一体どこでおねだりしたんじゃ?」で眠れなくなりました。褥で?…となりには見張りが寝ているし…。与えられた部屋に将軍を呼んで、人払いして「むにゃむにゃ~」?ドラマだと、障子のそばには召使が控えているんじゃなかったの? 妄想…妄想…
つゆくさ様
家斉の側室お美代さんの話は俗なお話沢山ありますよね。
ヒルメロぽいの・・・w
感応寺の事 みなさんにとっては当たり前のことなのかもしれませんぬデス