お雛様

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2月に入ってすぐに出そうと思っていましたが、
やっとお出ましになりましたw
娘と私のお雛様です。

私のお雛様は冠、勺(しゃく)が無くなってしまい、ちょっと威厳がありませんw
段々飾りを昔は羨ましかったのですが、
飾る立場になると親王飾りだけで十分ですわw

幼稚園のときに子供たちの作ったお雛様もだしました。

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友人が作ってくれた 折り紙のお雛様
立派です。
ただ 折り紙というと叱られますw。
ペーパークラフトだそうです。

 

雛祭りが現在の形に近づくのは、江戸時代に入ってからだと言われています。徳川家康の孫、つまり徳川二代将軍徳川秀忠の娘である中宮東福門院和子様は後水尾天皇へ入内し興子(おきこ)内親王をもうけます。これは言うまでもなく徳川政権の朝廷統制策なのですが、寛永6年(1629)の3月3日上巳に7才の祝を兼ねて雛遊びを催し、その際に親王雛の原形となる人形が作られた記録があります。興子内親王は後に即位されて明正天皇となられるのですが、この故事をもって江戸では上位である左側に女びなを飾る習慣が定着しました。また3月3日に定着したのはこれが元だとの説もあります。

この事例を受けて三代将軍徳川家光の長女千代姫の7歳の祝に、正保元年(1644)3月1日、諸臣よりひな人形が献上されました。以後大奥では女の子が生まれるとひな人形が贈られる風習が生まれたとされ、それを雛祭りの際に飾るようになったのが、現在の飾り雛人形の元となったのでないかと言われています。

延宝年間(1673-1681)に入ると、俳句の歳時記にも「ひな」という言葉がが3月3日の言葉として定着したようで、関西・関東共に都市部から雛祭りが定着し、女性の守護神として広がりつつあった淡島大明神が流し雛の根元であった事ともあいまって、淡島願人坊主によって信仰と共に広められ、急速に全国で雛祭りが行われる様になったようです。

雛祭りのお供えとして付き物なのは、菱餅と蛤(はまぐり)です。菱餅は下から順に緑、白、桃なのですが、これは蓬(よもぎ)餅の上に紅白の餅を並べた事に始まると言われます。蓬は古来より厄を払う草として珍重され、ご存知のように、葉の裏の白い綿毛はお灸に使われる「もぐさ」にもなる漢方薬として薬効の高い事でも知られています。また、真ん中の白を雪に見立てて、桃の花の咲くまだ残雪が残るものの、雪の下では緑の草が萌え出している情景を写したとの解釈もあります。蛤は女子の貞操を表すものであるとの考えが古来よりあり、初期はお供えの器に蛤の貝殻を使ってもいました。これは「貝合わせ」でも使われるように、良く似た形をしていても、ちゃんと一対になる物は一組しかない事に由来していいます。また視点を変えると、旧暦3月3日前後は大潮にあたり、潮干狩りが盛んな時期でもありました。寒い冬から桜の時期を過ごし、水も温んで当時の数少ない娯楽であった潮干狩りでの獲物である蛤に、意味を込めて頂いたとの説もあります。ちなみに節句の日は休日である事も多かったようです。

「雛祭り」は「上巳の節句」としての厄払いから、徐々に女の子のお祭りとして姿を変えながら今に至っています。「嫁入り」という言葉が現実的で、結婚すると実家から縁が薄くなった儒教時代としての江戸時代に、娘達を思う親の心の現れとして盛んになったとも言われています。

雛祭りについてより



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