3/26 文京学院生涯学習センターの講座 ホーリーの特別対談Ⅲ
ゲスト 講師 桜川米七師匠
色々ためになる話を聞いてきたわけですが、ラストで打ち合わせになかった 幇間芸を見せていただきました。
それは 何よりインパクトのある芸で 幇間の由来 歴史 諸々と伺うよりも目で見てこういうものなんだと感動しました。
動画を撮らせていただきました。
グーグルのアカウントをお知らせいただければ共有設定いたしますので、マダムまでお申しつけくださいm(__)m
みさおちゃんに動画をお見せしたところ こんな問題を出題されました。
「マダムと私で線香1本座敷に出るといくらだったでしょう?天保のころの料金です」
うーーーーむ 私は幇間の事が頭にありましたので 幇間だけで線香1本では出ないと回答したのでありますが、
【博覧強記p.216】
天保のころの記述によれば、芸者は、男女1人ずつ一組で座敷に出て、線香1本(1時間ほど)の間で、金一分という料金であったという。
芸者と幇間 男女1組でと考えていいのでしょうね (もう忘れませんwww)
【江戸額辞典p.525】
【太鼓持】のところに吉原細見に男芸者らしき名前がみられる。(はっきりしないらしい)
料 金については・・・・・略・・・・・『柳花通誌』(天保15年)に「芸者は男女共両人1組にて、線香1本金一分と定む、昼夜仕廻というは、朝より夜9つ時 まで線香5本にて仕切、引ヶ仕廻といふは、暮々夜9つ時まで線香3本にて仕廻る也」とかる線香1本とは40分ぐらいかといわれているが、割と高いもので あった。
料 金については・・・・・略・・・・・『柳花通誌』(天保15年)に「芸者は男女共両人1組にて、線香1本金一分と定む、昼夜仕廻というは、朝より夜9つ時 まで線香5本にて仕切、引ヶ仕廻といふは、暮々夜9つ時まで線香3本にて仕廻る也」とかる線香1本とは40分ぐらいかといわれているが、割と高いもので あった。
wikiにある
②着流しの絹の柔らか物に、真夏でも羽織を着て、白足袋に雪駄、
①芸者との恋愛は厳禁
坊主同様の伊達達にして 色気はありませんよ~~~をアピールしたそうです。
③桜川米七師匠の お師匠様
【豆本多】
9世紀前半のころの江戸の幇間は髷を豆本田にしていた。
米七師匠によると 坊主にしていたとも それは上記のように坊主を装い色気ないよと明示したらしい。
9世紀前半のころの江戸の幇間は髷を豆本田にしていた。
米七師匠によると 坊主にしていたとも それは上記のように坊主を装い色気ないよと明示したらしい。
由来は諸説ありで 下記資料にもいろいろと書かれてあります。
【幇間】 wiki幇間は別名「太鼓持ち(たいこもち)」、「男芸者」などと言い、また敬意を持って「太夫衆」とも呼ばれた。歴史は古く豊臣秀吉の御伽衆を務めたと言われる曽呂利新左衛門という非常に機知に富んだ武士を祖とすると伝えられている。秀吉の機嫌が悪そうな時は、「太閤、いかがで、太閤、いかがで」と、太閤を持ち上げて機嫌取りをしていたため、機嫌取りが上手な人を「太閤持ち」から「太鼓持ち」と言うようになったと言われている。ただし曽呂利新左衛門は実在する人物かどうかも含めて謎が多い人物なので、単なる伝承である可能性も高い。鳴り物である太鼓を叩いて踊ることからそう呼ばれるようになったとする説などがある。また、太鼓持ちは俗称で、幇間が正式名称である。「幇」は助けるという意味で、「間」は人と人の間、すなわち人間関係をあらわす意味。この二つの言葉が合わさって、人間関係を助けるという意味となる。宴会の席で接待する側とされる側の間、客同士や客と芸者の間、雰囲気が途切れた時楽しく盛り上げるために繋いでいく遊びの助っ人役が、幇間すなわち太鼓持ちである、ともされる。専業の幇間は元禄の頃(1688年 – 1704年)に始まり、揚代を得て職業的に確立するのは宝暦(1751年 – 1764年)の頃とされる。江戸時代では吉原の幇間を一流としていたと伝えられる。現在では東京に数名と岐阜に1名しかおらず絶滅寸前の職業とまで言われ、後継者の減少から伝承されてきた「お座敷芸」が失伝されつつある。古典落語では江戸・上方を問わず多くの噺に登場し、その雰囲気をうかがい知ることができる。台東区浅草にある浅草寺の本坊伝法院には1963年に建立された幇間塚がある。幇間の第一人者としては③悠玄亭玉介が挙げられる。男性の職業として「らしくない仕事」の代名詞とされた時代もあった。正式な「たいこ」は師匠について、芸名を貰い、住み込みで、師匠の身の回りの世話や雑用をこなしながら芸を磨く。通常は5 – 6年の修業を勤め、お礼奉公を一年で、正式な幇間となる。師匠は芸者置屋などを経営していることが多いが、①芸者との恋愛は厳禁である。もっとも、披露も終わり、一人前の幇間と認められれば、芸者と所帯を持つことも許された。芸者と同じように、芸者置屋に所属している。服装は、見栄の商売であるから、②着流しの絹の柔らか物に、真夏でも羽織を着て、白足袋に雪駄、扇子をぱちぱち鳴らしながら、旦那に取り巻いた。一方、正式な師匠に付かず、放蕩の果てに、見よう見まねの素人芸で、身過ぎ世過ぎを行っていた者を「野だいこ」という。これは正式な芸人ではないが、「師匠」と呼ばれることも多かった。なお上方では、江戸でいう幇間は芸者と呼ばれ、対して女性は芸妓・芸子と呼んでいたが、明治以降は芸者も女性を指すようになった。
【幇間】 日本大百科全書宴席に興を添える職業。太鼓持ち、男芸者などという。初めは遊里の案内者として遊客に同伴されていたが、元禄ごろにはこれを職業として遊興の助言をするようになり、宝暦年間に遊芸をもって宴席の遊戯的気分を盛り上げる職業人として独立した。幇間を太夫・師匠と呼ぶのは、彼らが一中節(いっちゅうぶし)・清元(きよもと)など音曲を表芸にすることが多かったことによる。ただし幇間としては、表芸を演じるのではなく、それを基礎として新古の演芸、物真似(ものまね)、声色(こわいろ)舞踊などの多芸にわたり、それを即興的、滑稽的に見せるのを特色とする。遊郭や私娼街のほか、市中に住む幇間もいたが(野太鼓という)、江戸では吉原の幇間を一流とし桜川甚好(じんこう)・同善好(ぜんこう)らが有名となった。 一方では、無芸で客に世辞をいって収入を計る卑屈な幇間があり、追従(ついしょう)者を「太鼓持ちのようだ」とさげすむのはこれに原因する。明治・大正期の花柳界の盛況で幇間も増えたが、現在は数名が残るに過ぎない。
語源由来辞典【太鼓持ち】人にへつらって機嫌を取る人をいうようになったのは、宴席などで席を取り持つ職業の「太鼓持ち」からであるが、太鼓も持たないこの職業が「太鼓持ち」と呼ばれるようになった由来は定かでなく、語源は以下のとおり諸説ある。太鼓の演奏でうまく調子を取ることと、大尽の調子を取ることを掛けたとする説。<br>踊りやお囃子などで、鉦を持たない者は太鼓を持っていることから、「鉦」を「金」に掛け、金持ちに合わせて調子を取るところからとする説。<br>相手をおだてたり褒めたりすることを「持ち上げる」というが、太閤の機嫌を取るためにおだてることを「太閤を持ち上げる」の意味で「太閤持ち」といい、それが「太鼓持ち」になったとする説など。この職業の正式名称は「幇間(ほうかん)」なので、太鼓持ちの当て字として「幇間」が用いられることもある。
守貞謾稿 3
【太鼓持】幇間・牽頭(たいこ)の字を中(あ)つ。けだし京阪の俗語には「たひこもち」、また芸者、また「やっこ」と云ふなり。江戸にて芸者と云ふは、大略女芸者のことなり。幇間は必ず男芸者あるいは太夫とも云ふなり。京阪にて芸者ちぬ云わば幇間なり女芸妓は芸子と云ふなり。また京阪には野太鼓と称することこれなし。しかれども、その業をなすものは往々これあり有実無名なり
マダム様
みさおちゃんも凄いけど、マダムも凄い (^^;)
いやぁ みさおちゃん 本当に凄いヨwww
比べてマダムはヘタレでござるwww
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