神楽坂ランチ&藁坂司天台

2度のキャンセルがあってやっと開催された江戸研倶楽部の新年会。毎年「どぜう鍋」でしたが今年は豆腐会席。

待ち合わせは。善国寺毘沙門前 

右にある道を左に曲がりさか坂を登る、藁坂の標識、さらに登ると 右にマンション建築中 前は駐車場の場所
 
 

マンション建設中の看板に袋町とあります。
博覧強記P.306
【天文学と暦】
幕府の天文方には天体観測用の天文台が設置され。「司天台」と表記された。江戸では、時期により移転しており、貞享2年に牛込藁店、元禄2年(1689)に本所、同14年には駿河台にあった。さらに延享3年から宝暦7年(1746〜57)は神田佐久間町にあり、西川正休が暦法調査の観測をしたのはこの天文台である。
明和2年から天明2年(17651〜82)は牛込に、その後は浅草福富町に移った。ほかに天保13年(1842)に九段坂上にも設置された。

天文方の観測施設

渋川春海が天文方に任じられた翌貞享2年(1685年)に牛込藁町の地に司天台を設置した。元禄2年(1689年)に本所、同14年(1701年)に神田駿河台に移転する。春海の没後、延享3年(1746年)に神田佐久間町、明和2年(1765年)に牛込袋町に移り、天明2年(1782年)に浅草の浅草天文台頒暦所とも)に移った。この時に「天文台」という呼称が初めて採用された。高橋至時や間重富が寛政の改暦に従事したのは牛込袋町・浅草時代であり、伊能忠敬が高橋至時の元で天文学・測量学を学んだのも浅草天文台であった。その後、天保13年(1842年)に渋川景佑らの尽力で九段坂上にもう1つの天文台が設置されて天体観測に従事した。明治2年(1869年)に天文方とともに浅草・九段の両天文台が廃止される事になる。

wiki 天文方

両方をみると、
貞享2年ごろ 牛込藁町に渋川春海がここ観測していた
明和2年 再び牛込袋町が高橋至時・間重富 が寛政の改暦に従事した。
青丸で想像で入れてみました(想像ですわ)
司天台を置くくらいだから、標高も高くあたり一面見渡せたのでしょう
 
 

御徒組・先手組の屋敷もあり。牛込御徒町、御徒組屋敷で寛延2(1749)大田南畝が生まれている。

ランチ前の散歩はここまで(笑)
調べると、いろんな事が出てきて面白いザマす〜

天前神楽坂の細い細い道を入り石畳の風流な道を進み風流な建物を通り抜けながら進みます。
  
  

お二人の難しい試験の合格祝い
やっと出来ました。
お二人が色々頑張っている間、家族や自身が体調崩したり、慌ただしく過ごしていたことを思い出しました。
その後 場所を変えてお茶しながら5時間ほど、おしゃべり〜www
  
  

牛込揚場・神楽河岸。軽子坂 名前の由来
兵庫横丁・本多横丁
等々 資料を作ってきていただいて、勉強になりました。
ただのランチじゃないでしょ???(笑)

チョットだけおまけ
本多横丁は、地図の星印 旗本(のち大名)本多津島守の屋敷があったことに由来
神楽坂下の左手 スタバのあたり(地図星印)、牡丹屋敷とあります。

牛込牡丹屋敷。豊島郡野方領牛込村内にあったが、武家屋敷になった。八代将軍・吉宗の時代、岡本彦右衛門(通称「牡丹屋」)が吉宗に供して紀伊国から出て来た際、武士に取りたてようと言われたが、「町屋がいい」と答えてこの町を拝領した。屋敷内に牡丹を作って献上したため、「牡丹屋敷」と唱えた。岡本彦右衛門は家伝の薬「熱湯散」を作っていたが、1761(宝暦11)年にある理由で咎めを被り、屋敷は没収、公有地となった。1762(宝暦12)年12月24曰、地所は3つに分割され、大奥女中方御年寄飛鳥井(かすがい)、同花園(はなぞの)、御表使三坂(みさか)の3名の女性が拝領することになった。そのうち1ヶ所が拝領町屋となった(町方書上)。

https://edo.amebaownd.com/posts/3695408/

楽しい楽しい 新年会でございました。
そして 今後の課題もたくさん見つかりました。



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2 Replies to “神楽坂ランチ&藁坂司天台”

  1. マロンおじさん

    有意義な新年会、良かったですね!高橋至時や伊能忠孝の時代の神楽坂ですか・・面白いですね。西欧に負けない天文学への悪なき追及!脱帽です。ランチ画像にお銚子やビールグラスがあればさらに最高!!(ノンアルで5時間ものおしゃべり!流石です!)

  2. 高橋至時 伊能忠敬の時代のこのあたりは、牛込揚場・神楽河岸・軽子坂が繁栄していて、飯田濠から荷揚げされた物資で賑わっていて、
    旗本屋敷や寺社も多く現在のようなオシャレな商業地域ではなかったようです。
    お茶とお水で何時間でもお喋りできる女子でした(笑)

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