思いがけない 名古屋ができて 花の清須は 野となろう
これは、名古屋城の城郭の整備、城下町「碁盤割」の造成が終わり、「清須越し(きよすごし)という、清須から名古屋への大移動が始まったたころにつくられた臼引き歌です。清須城内の猿面茶屋などを始め、福島正則の建てた三つの蔵、武家屋敷、町人屋敷、神社三つ、寺院百十、町名六十七、そして五条橋までも移す大移動が敢行されました。庭石までもが、持ち運ばれていき、清須城下は火事場跡より惨めであったということです。
織田信長、織田信雄、福島正則、松平忠吉らの居城として、尾張の中心となっていた清須城があるのに、家康はなぜ名古屋城をつくったのでしょう。
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで勝利を納めた徳川家康でしたが、徳川幕府の支配体制はまだ盤石のものではありませんでした。家康が名古屋城の築城を宣言した慶長14年、大阪城には秀吉の息子である、豊臣秀頼が成長し、17歳となっていました。西国の豊臣恩顧の大名衆(加藤清正、福島正則、黒田長政、山之内一豊……)が秀頼を担いで、徳川幕府に反旗を翻す恐れも残っていました。家康は、そのような戦が起こった場合、大阪方を迎え撃つ場所として、尾張の地を想定していました。
しかし、清須城は徳川軍の本拠とするには十分ではありませんでした。清須城は尾張南西部の低地に位置し、木曽川や五条川、そして北西には沼沢もあることから水攻めを受ければ大打撃をうけることになります。また、江戸からやって来る徳川の大軍が待機する場所もありません。
一方、名古屋は乾いた台地で、熱田の海に近く、東西の交通も開け、大軍を動かすのにも都合がよい場所でした。
名古屋城の築城は、天下普請として行われ、豊臣恩顧の大名達も動員されていました。これは、豊臣恩顧の大名の財力を削ぐと同時に、名古屋城の縄張りを実際に見せることで、その防御の堅牢さを知らしめ、謀反の野望を挫くことも狙ったのでした。実際に、慶長19年の大阪冬の陣、慶長20年の大阪夏の陣で、大阪方に味方する大名はありませんでした。
参考文献
続・名古屋城叢書1名古屋城こぼれ話 水谷盛光 著 (財)名古屋城振興協会
知れば知るほど好きになる 名古屋城 名古屋城PRイベント実行委員会
近世城郭の最高峰 名古屋城 三浦正幸 監修 名古屋城PRイベント実行委員会
名古屋台地

名古屋城の縄張


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