『折たく柴の記』(中 )弟 12回勉強会

『折たく柴の記』(中 )弟 12回勉強会

これまで要約をPDFにしてきましたが、本家の現代語訳があるので、そちらにお任せすることにしました。

勉強会で話題になった内容中心にしていきます。


   

テキスト: 日本古典文学大系〈第95〉戴恩記・折たく柴の記・蘭東事始


  

現代語訳:折りたく柴の記 (中公クラシックス) 新書  新井白石(著), 桑原武夫 (翻訳)

◆家康公の実録のこと

家康のパパ 松平広忠のことについて、
林大学頭信篤らが編纂した『武徳大成記』には、「近習の者が刀を抜いて、広忠を刺して逃げ出したのを、人々が誅した」と書かれているが、白石が書いた『藩翰譜』には、股に傷を追われたということが、書いてある。

つまり、信篤はただ刺されただけしか書いておらず、白石は股を切られたことも書いてある。

家宣は、即死されるほどの傷ではないのに、広忠自身が追いかけることができなかったのは、股を切られていたからだという事を書いておかないと、後世の人がどう思うか?と疑問だったらしい。

このこと、おばちゃん3人の意見は、まずは肩を斬り刀を使えなくする、そして股を斬り追いかけてこれなくする、これが、近くで斬り合いになった時の常套手段だったのか???

家康のパパの死の真相は明らかではないけれど、家宣にとっては、先祖の実録は、ここまで書いて欲しかったのではないだろうか。

林信篤は学者であり、武士の心得まで及ばなかったのかもしれない、白石は儒者であると同時に武士でもあったので、この辺のところは理解していた。

◆奈良の両門主が争うこと

先代綱吉の頃からの 興福寺の 一乗院殿と大乗院殿の争いを、家宣は白石に尋ねられた。

この一乗院殿と大乗院殿のことについては、難しすぎるwww古くからの争い、
大乗院殿関連が綱吉の御台所 、一乗院殿関連が家宣の御台所、

公家の近衛前久の系図などを見ると頭がクラクラするwww

白石の頭脳明晰ぶりが発揮されていた。

◆八瀬の叡山結界のこと

八瀬の里人の事 比叡山に結界を作ったことによって、八瀬の人々が生活できずに困っていた、解決されまいままになっていたが、家宣が年貢・諸役を免除 別に土地を与えた。 と解釈していたのだけれど【 八瀬童子】をメンバーの一人がご存じだった。 八瀬の里人のことですわ

八瀬童子(やせどうじ、やせのどうじ、はせどうじ)は山城国愛宕郡小野郷八瀬庄[(現在の京都府京都市左京区八瀬)に住み、比叡山延暦寺の雑役や駕輿丁(輿を担ぐ役)を務めた村落共同体の人々を指す。室町時代以降は天皇の臨時の駕輿丁も務めた。伝説では最澄(伝教大師)が使役した鬼の子孫とされる。寺役に従事する者は結髪せず、長い髪を垂らしたいわゆる大童であり、履物も草履をはいた子供のような姿であったため童子と呼ばれた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%80%AC%E7%AB%A5%E5%AD%90

比叡山延暦寺の輿を担ぐ役を務めた村落の人々のことで、代々の天皇の葬送に関わってきている。

南北朝時代、後醍醐天皇を比叡山に逃す手助けをしたことから始まり、令和の今も続いている

御伽話のような村落が現在でもあるんですな〜



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