『折たく柴の記』中 弟10・11回勉強会

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2022/06/03日・10日

折たく柴の記 中

宝永6年正月10日に 5代将軍 綱吉が亡くなり、家宣が将軍となる。

家綱の儒者としての新井白石の活躍が始まる、白石53歳

これから、さまざまな事象に将軍から意見を求められ、それに意見を出していく。「折たく柴の記」は白石が家人のために、自分のことを記すために書いた書物

明治以前は写本として読まれ、明治14年刊行された。白石本人は自分の功績を子孫に残すために書いたもので、新井家はかたく秘蔵してなかな外部には出そうとしなかったらしい。

将軍との意見のやりとりは、やはり時間を経ないと出版できなかったのだろう。

家宣の治世が始まり、まずは近習の人々の配置換えがあった。そこでメンバーで話題になったのが、綱吉の時代 新設された「廊下番」というポスト 能役者が務めたそうだ。

士分に取り立てられた役者は、特に貞享以後はこのために新設された廊下番のポストにつけられて表向き能役者を廃業し、綱吉が城中で私的に催す能に出演させられた。当初は五座以外の役者を士分としていたが、次第に諸座の大夫・家元クラスがその対象となっていった。これを断ればやはり追放が待っており、当主・後継者を奪われた各家は大きく混乱した。特に大夫を2度にわたって取り立てられた喜多座では、分家の権左衛門家が断絶を余儀無くされている。登用された役者たちは、三世喜多七太夫宗能改め中条直景のように900石取りにまで出世するものもいたが、五世喜多七太夫恒能のように綱吉の男色の相手を断り切腹させられるなど、多くは過酷な運命をたどることとなった[13]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E5%90%89

家康以来、代々の将軍は能を愛好してきたが、綱吉はその中でも「能狂」と言われるほどの執着を示した

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E5%90%89

能役者は立ち居振る舞いも、修練して美しかったであろう、廊下に控えているだけの仕事だけれど、綱吉にとっては大事な番役であったのかしらん

そのほか、柳沢吉保や白石が目の敵としていた荻原重秀の話

柳沢は側用人 大老格として綱吉を支える。綱吉の機嫌を損なわないことだけに神経を使っていたような人、綱吉の使い放題の国家財政、事あるごとに御なり(家来の家に来訪する)を繰り返し、大好きな講義をして聞かせ、褒美もバンバンあげてた。

先の、廊下番の部屋は、柳沢吉保邸にあったそうな、柳沢は、綱吉の御意のままに神経細やかに支えていた様子です。

他、荻原重秀が譴責処分になったこと、林大学頭信篤の行いなどが書かれている。2人とも白石にとっては大敵 おでこに炎の字が浮かび上がっていただろうと思いますw



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