『折たく柴の記』勉強会4-1回

『折たく柴の記』勉強会4-1回

折たく柴の記 4-1 4/19(火)9:00~

父母の話しの続き

◆母と姉妹

父が結婚したのは40を過ぎてから

長女 おまつ 
二女 およね  2人とも3歳にならぬうちに没
三女 おてい 19で没
白石誕生 父57 母42
四女 おまで 18で没

母はどのような人の子であったかはハッキリしない。姉妹2人だった。

白石が母方の祖父のことを尋ねると

知らせるべきではないから、はっきりと言わない。母の父母のことを知らなくても恥ではない。しかし大人になってから、考えるだろうから、話しましょう。

母方祖父は秀吉朝鮮出兵し、丹羽長重の娘が結婚された時、小上臈になり、浅野内匠頭長直家に行かれ、後長生院となり、陸奥二本松に帰って住んでいた時、父と結婚。

(浅野長直は火消しで有名 浅野内匠頭長矩(忠臣蔵)の祖父)

母上は字が上手 和歌、物語、囲碁、将棋にも秀でていた。父の似て、父が辞職後母も尼となり仏の道に熱心に努めた 

延宝6年5月10日没

◆父が土屋家を去る ◆母の死

父75歳の時 土屋の殿(土屋俊直)が亡くなる。(延宝3年4月24日)世継ぎ 頼直に辞職を願い聞き入れられ、養老のための手当をもらい、母と共に浅草 法恩寺に庵を立てて住む。

その年、御家騒動の連座で頼直に追放され、(延宝5年2月22日)白石も士官の道を閉ざされる。

その後妹が亡くなり、母は心労のため亡くなる(延宝6年5月10日没)

利直の死後、藩主を継いだ土屋直樹には狂気の振る舞いがあり、父の正済は仕えるに足らずと一度も出仕しなかったため、新井父子は2年後の延宝5年(1677年)に土屋家を追われる。貧困の中で儒学・史学に励み詩文を学んだ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E4%BA%95%E7%99%BD%E7%9F%B3

◆堀田正俊への出仕

土屋家が改易となり禁固がとけ、ある人の推挙により 堀田正俊(老中)に仕える。

◆父の死

堀田氏に士官したので、心置きなく養う事ができると思っていたところ
天和3年6月8日 父が白石の家に来て、夜通し歓談 翌朝帰られた。その日、発病

白石が駆けつけたのちに死亡。

教訓が多かったが、白石が思い出すのは

「男は、ただ忍耐ということだけを修練すべきである。これを修練するためには、ないごとにせよ、自分が一番耐え難いと思うことから忍耐を始めると、時を経るうちに、そんなに困難だとは思われなくなるはずだ」

白石は生まれつき気が短く、怒りっぽい。それは世間の険しい道を渡り、年をとって力も衰えたので、昔のようではないけれど、子孫たちに祖先の家訓と思い、この心得を大切にしてほしい。

◆金と色を慎むこと

もう1つ 教訓

父は

「13の時から他人の中で成長してきた。親しくした人の多い中で最後まで交際できたのは、2つのことを慎んだからである。いわゆる 金と色だ。多くの人を見てきたが、生まれも人柄も違うがこの2つの欲がない人だけが、どこにおいても人に嫌われる事がなかった」

私の師匠 木下順庵も 同様のことを言われた。


ここまで、時系列が整っていないけれど、白石の祖父・父母についての回想録

白石の父は、いつも元気旺盛・謹厳実直 自分を律して生活する、強く逞しくかった様子。まだ江戸初期 戦国の匂いも消えない時代、余計なことは言わない古武士そのままであったらしい。白石の活躍の時代は綱吉から、文治政治となり、武士のあり方も違って来ている。白石にとっては憧れの父だったと思われます。

やっと明暦3年 大火のすぐ後に白石が生まれます。

4回目の勉強会 ここで一区切り付けて、続けまする。



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