『折たく柴の記』勉強会3回

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『折たく柴の記』勉強会 4/15(金)9:00〜
まだ、新井白石うまれてませぬw 祖父・父の回想をしています

◆父の日常

老いについて

「一般に人間の気力は年と共に衰える者だが、老いぼれる時期になると、どんなに慎重にしていても、ボケずには済まされない。だから、若く元気な時から注意しておけば、たとえ老いぼれる時期が来ても、見る人に興醒めな印象を与えずに済む。老人がボケて見えるのは、言うべきでないことを言い、してはならぬことをするからである」

「人は、年を取るに従って、万事、若く元気であった時よりもいっそう慎み深くせねばならない」

容姿について黒い髪はなく、顔は四角、額が出て、目が大きく、髭多し背は低く、骨太で逞しく見えた。喜怒哀楽を外に出さず、驚いたり騒いだり、度を失うことを見たことがない。

病気の時以外は他の人を使われず、何事も一人でなさった。

食事も飯二杯をこさず、バランスの良いことを心がけ、「何をくれ」とは言わず、ただ季節のものは食べさせて欲しいと言われ、家のものと一緒に召し上がった。

服装も家にいるときは洗い清めたもの、外出の時は身分に過ぎた者ではなく、新しいきれいなものを着用された。

「昔の人は、いつも、死んだ後見苦しくないように心がけたものだ」と言われた。
扇子も身の丈にあった、それでも立派なものを用いていた。

刀・脇差も同様である。

70を越してから、左肘が痛むおり、鞘巻(鍔のない小刀)だけをさして出仕、大刀は供のものに持たせた。「もしも事が起こった際、大刀を持ちながら、それを使わないと言うことは都合、そうかといって、体が痛くて、太刀を使うわけにはいかない。いっそ無用のものは身に帯びない方が良い」と考えられた。

父が亡くなってから年を経て、高徳寺住職了也が語った、80を超えた父の武勇伝

「泥酔者が刀を振り回し、人を追い散らして向かうものもないところ、父上が杖にすがって部屋を出られ、男に立ち向かい手をむんずと掴み、蹴り倒し、刀を取り上げ溝に投げ入れ、部屋に帰られた」

(時代劇のような話・・・かっこいい~w)

白石17.8歳の頃、とり縄(人を縛るときに使う)を懐に入れていたのを父上の前で落としたところ

「私が昔目付の役をしていた頃、部下に命じて捕らえさせる際、部下が持ち合わせていたい場合のために身につけていた。目付の職を辞めてからは無用のもの、猫をつなぐのに使っていた。武士のわざは何事も心得ていなければならないことは言うまでもない。こうした道具はおまえが身につけておるべきではない。」

◆高滝某の事

父の話

播磨国宍粟の領主に仕えた人、高滝何某というものが突然行方をくらました。

釣りが好きで、着物・刀・脇差を従者に番をさせ、自分だけ川に入り鮎をとっていたところ、隣の領に入ってしまった。隣の領は魚取りを禁じていたことから番人に捉えられ、血の涙を流して謝り、許してもらったが、いずれ露見するだろうと逃亡した。

翌年隣領の正門前で出仕者の一人を斬りすて、事の次第を詳しく書いて、その恥辱をそそぐためと書いた札を立てて逃げる。すぐ捕まりそうなものの、翌日も一人斬り同じ札を立て、同じ月7日にもまた一人斬り逃げた。ついに行方わからず当時の人は大胆不敵と言った。

父が上総の国かああら高滝というところに行って、そこの名主の家に滞在。夜になり、土地の人々が集まってきた中、60近い男が私と目が合うと顔を伏せる。そんなことが2.3度あったので、そばに行って声をかけたら、初めは土地のものと言っていたが、「私こそ、昔、ご存知の高滝某の成れの果てでございます」という。

代々の先祖の領地に忍んでくると、土地の人たちが哀れに思って生活させてくれた。新井様がここに来られると聞き、知っている人かもしれないと来たらあやしまれました。

同行の人々に聞かれ「播磨国で、7日のうちに3度まで人を斬って、札を立てた高滝というのがあの男です」というと、皆驚いた。

「全ての人生に浮き沈みがあることは。想像もつかぬことだ」

◆越前某のこと

父の若い頃、越前の何某というものがあった。この男も失踪した。

年が経ち、陸奥國をさり山陰道へ行こうとして、箱根山中畑宿を通った時、薪を背負ったものに出会った。声をかけられ、わからなかったが、越前某であった。

積もる話もあるから、私の家に寄って泊まってほしいという。

年老いた父を養う禄がもらえずに、昔のつてでこのような暮らしをしている。

2人向かい合って昔や今のことを話し続け、男は父の寝ている部屋から、刀と脇差を取り出した。

「昔身につけていた物もう、惜しむ理由はないけれど、力の続く限り、せめて刀・脇差1腰ずつは残しておきたい 頑固に今まで身から離さずにいた。父の寿命もあとわずか、父への孝養を尽くした後、またお目にかかれる機会もあるでしょうか」と涙を流した。

その後別れたが、問い合わせる手段もなく、どうなったことであろう。2度と出会ったひとはなかったと言われた。

◆軍治正信のこと

白石の父がまだ結婚前に親友(平国香の子孫 のち甥維幹(コレモト)の子孫の家名 郡司何某の子孫であるという。)の3男を養子に迎え正信と名をつけた。

正信16ときに、土屋家2男(忠胤)が、陸奥相馬家を相続したときに召し連れられ仕えた。

白石の父が土屋家を去ってからは、正信が老後を養うものを送ってきた。白石が出仕してからは仕送りを辞退した。軍治家は郡司と改めて代々続いた。

◆土屋家の祖先

土屋の殿(利直)の祖父 土屋右衛門尉昌恒。その兄昌次戦死の後、兄の家を継ぐ。武田家滅亡後、家臣らは皆主君に背いたが、昌恒ひとり主君から離れず一緒に死ぬ。配下の志水・神部の2人の家臣が昌恒の妻子を連れ駿河国に落ち延びた。清見寺の住職が神部の知人であったので、その子供を弟子にした。

清見寺 

徳川家康公は、幼少時今川氏の人質として駿府に在りし頃、当時の清見寺住職太原和尚(第一世)より教育を受けました。又後年大御所として駿府に隠栖した際には、当時の住職大輝和尚(第三世)に帰依し、再三に渉って清見寺に来遊しました。

https://seikenji.com/history.html

その子6歳の時に家康に気に入られて、2代将軍秀忠に支えた。次第に立身し元服後民部少忠直と名乗る。この方がのちの土屋の殿の父。

◆神戸家のこと

神戸の子孫は土屋家では立派な譜代。

長男 土屋家士官

次男 陸奥三春藩城主 松下家家老

三男 土屋家士官 のちに土屋の殿の弟 数直殿の家の家老


一番わからなかった話は◆高滝某のこと

高滝某の行動がわからない、
魚を追いかけて隣寮に入り、下っ端の番人に捕まえられた事が武士として恥ずかしかったのか?
なぜ、隣領の武士をたて続けの3人も斬って理由を書いた札を立てて逃げたのか?
武士としては、同じ位の武士を斬ることで、恥辱を晴らしたのであろうか?

この辺りのことが全然理解できない トホホホホ

最初の◆父の日常 では白石の父 日々の行状が描かれている、もっと色々なことがあったであろうけれど、白石にとっては、『柴の木』に描かれていることが、印象に残り、心の糧になっていたのだろう。

枝分かれして、いろいろ調べて、注の間違い発見www

◆土屋家の祖先

清見寺で家康が土屋昌恒の嫡男を気に入り 連れて帰って 竹千代君につかわされた。

その六歳なりし時、大御所御覧ありて、土屋が子なる由を聞召され「去るものの子也。給らむ」と仰ありて、めしぐせられ、竹千代君に参らせられしより・・・・・・

「折たく柴の記」本文

注では竹千代君は3代家光の幼名とあります。年代的に2代秀忠ではないか?という疑問wikiには秀忠とあります。忠直の忠の由来からも秀忠ではないか???

忠直は母に連れられて駿河国清見寺に逃亡したが、やがて徳川家康の召し出しを受けて家臣となり、徳川秀忠の小姓として仕えるようになる。のちに秀忠の「忠」の偏諱を与えられて、忠直と名乗る。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B1%8B%E5%BF%A0%E7%9B%B4

秀忠は竹千代と名乗っていないと思い込んでいましたが、

改名 長松(長丸)→竹千代(幼名)→秀忠
秀忠wiki

まだまだ、白石生まれてない 白石の政治的活躍までには程遠い〜



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