『折たく柴の記』勉強会1.2回

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折たく柴の記 

江戸仲間3人で毎週1度 勉強会(リモート)をしている。今まで戯作中心に音読して調べて、いろいろベチャベチャと話をしてきた。今回は、お硬く『折たく柴の記』
勉強をするにあたって、まずはテキストの入手が容易いこと、そして同じテキストを購入する。ページが違うと話も面倒になるw

今回も 音読して、色々気になったことを話す調べたことを話すがメイン
候分ゆえ、音読しているとかえって話がわからなくなることしばしば・・・

4/1(金)4/8(金)に1回目2回目を行いました。私自身が旅行だったり色々多忙だったため、予習そしてまとめをするのが遅くなりました。

以前 春告鳥は全回感想をまとめておいたけれど、以後テキトーになってしまった。今回は気合を入れて、最後までブログでまとめられた良いと思ってます。

素人ゆえ、間違いもあると思いますが、勝手にまとめをアップします。

【序

享保元年(1716)10月4日 折たく柴の記を書き始めたらしい 白石60歳

6代将軍家宣7代家継に学者として支え 様々な仕事をやり遂げてきた。8代将軍吉宗が就職すると間部詮房とともに罷免される。

その年に書き始めている。

自叙伝であり、自身と新井家の祖先の足跡を子孫に伝える意図で書かれた。

昔の人は無口で、言うべきことしか言わない、父や祖父のことを尋ねたくてももうできない。今暇のある身になり、過ぎ去ったことを取り止めもなく書き留めておきたい。

◆祖父母のこと

祖父通称を勘解由といい、常陸国下妻(今の茨木間下妻市)の上に住んでいて、 土地の人々から古橋殿と呼ばれていたらしい。1時、下妻城主の多賀谷氏に支えたこともあったが、関ヶ原の役に多賀谷宣家が西軍(豊臣方)につうじたため領地を奪われることになって勘解由は浪人となり、下妻後で田畑を開梱して生活したと言われる。 慶長14年(1609)8月27日に亡くなっていた。その時何歳であったか明らかではないが、おそらくまだ60歳を超えなかったであろう。仮に50歳位であったとしても、没年から27年前には豊臣秀吉が織田信長の後を受け継いで天下を取った年である。 その頃白石の祖父は23の若者であったろう。それから秀吉の時代、家康の時代が進んで、慶長10年と言えばすでに秀忠の時代であった。秀吉から家康を経て秀忠に至る時代はわが国の政治社会子の上で最も変動の大きかった時であった。白石の祖父は実にこのような目まぐるしい時期に青年、壮年の時代を過ごしたのである。

叢書・日本の思想家14 ,三宅観蘭 新井白石 進藤英幸著より

慶長10年に亡くなっている祖父 まだ戦国時代真っ只中信長・秀吉の時代 大坂冬の陣の前 武士の世とはいえまだまだモノノフの世 戦乱真っ只中に生きていた白石の祖父は生きていた。

祖母 慶長9年3/3没

祖父 慶長14年8/27没

◆父のこと

白石の父は慶長6年下妻で生まれ、祖父の従臣であった人に養われた。13歳の時に友人との口論で自分の出自を知り、手習師匠に金を借りて江戸に向けて家出をする。

不思議なのは、当時江戸に出ると言うことが、どんな感じだったのだろうか?

まだ、徳川政権も安定する過程だっただろうし、花のお江戸に出ていくと言うイメージではなかったはず。

◆父が土屋家に仕える

31歳 土屋家に出仕 歩行侍
その時のエピソード

盗みに入った3人を逮捕、父一人に預けられる。

「私に預けられるのなら、彼らの刀・脇差を取り上げないでほしい」と申し出て許される。3人に刀・脇差を返し、自分の刀・脇差を手ぬぐいでくくり投げ出し、10日余り一緒に過ごした。

盗みは事実無根とわかったが、彼らを使っておくわけにはいかぬと、土屋家は追放された。

彼らとしては、父を斬って逃走することもできたはず、しかし父に刀・脇差を返してもらったので武士に戻れる。刀・脇差を取り上げられることは、武士であることを取り上げられるに等しいことであったのだろう。

この行動もあって、父は抜擢されて 土屋家に留まることができた。

◆父の行状

目付になった父の生活習慣は毎日同じ、少しも変わりなく、午前4時起床 自分で髪をゆい、着替え、仏を礼拝する。両親の命日には自分で飯を炊いて供える。出仕される道は決まっていた。

土屋の殿に信頼される。駿府城の加番、日光山の火の番、大阪城の守備のエピソード。

どれも、主君に忠実に支えている。

◆蘆沢(アシザワ)某のこと

殿が「蘆沢を自ら成敗する」と言われた。何も答えずにいると、「返事がないのは、何か意見があるのか」と言われた。父は庇って殿に「若いから馬鹿げた振る舞いもあったのかもしれない、年とって、ものの役に立たぬ者も多い・・・」と考えていたと答える。

すると、殿「顔に蚊がとまっている。追え」と顔を動かすと血をたくさん吸った蚊が6,7つ落ち、懐紙につつみ控えていると、殿「帰って休むが良い」と言われたので退出した、

その後、蘆沢に忠告を怠らず、年月を経て蘆沢の父の職務を継いだ。

殿様に直に談判できる立場までになったのは凄い、信頼が厚かったのだろう。

それにしても、蚊のエピソードは何ともはや、6.7つの蚊が顔を刺したら、痒くてじっとしていられなかっただろう、私にはできない。

◆加藤某のこと

土屋家にいた加藤という人の武勇伝 

猿引という宝刀の話。

加藤が16の時(白石20くらいの時に60以上と思われる加藤)自分に支える若党を、青磁の鉢もろとも斜めに切ったと皆が噂していた。

白石が父が退職後その刀の話をすると、加藤と同じ長屋の隣に住んでいた父。主従の口論が始まり、父が刀を持って駆けつけると、加藤は相手を斬りつけたもの斬れなかったのか相手が包丁をとって立ち向かおうとしていた。父が刀を抜きざまに斬ったところ、前にあった鉢ごと切り捨てた。「とどめを刺しなさい」と自分の刀を鞘に納めて帰った。後で集まった人々が猿引の刀ということになった。

その刀は、お前が幼い時にやったあの刀だ。【全て人の言うことは、そのまま信用してはならない】

別の刀の話

国清が作った桐葉の模様のある腰刀は、岡部丹波守の孫にあたる人のもの。土屋の殿の父君・忠直の従弟。その人が13の時 16になる従者をつれてモズを捕ろうとして野原に出かけた。猪が突然飛び出してきて、従者は主人を捨て松の木によじのぼる。13歳の主人はその松を後ろにして、猛進してくる猪 腰刀を抜いて斬る。巨木に押し付けて刀の鍔で自分の鼻から頭半分を押し割って猪は倒れて死んでしまった。父はその刀を手に入れて白石に譲った。

【人に向かって、自分の差している刀がよく切れるなどと言ってはならない】

白石の父の話、自身が生まれてからの話はもっと先になる。

祖父の時代はまだ、江戸の初め、信長、秀吉の方が近い時代。戦国の世で武士とはいえ、所領を取り上げられて浪人となっている。

父は養父から家出して、江戸で土屋家に出仕する。必要なこと以外は口にせず、身を律しての生活。実直に支え歩行侍から目付に昇進する。

時は6代将軍綱吉、文治政治の始まり、武士が政治を始める。土屋の殿が、駿府城加番、日光山火の番、大阪加番等々に行っている。参勤交代や幕府の制度もやっと出来上がりつつある過程にある。

 4/1 4/8 2回分のリモート勉強会のまとめ 要約したつもりだけれど、間違っているかもしれない。そして大切な部分を略してしまっているかもしれない・・・トホホホホホ



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