【浮世床】リモート勉強会2柳髪新話浮世床初編巻之中

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毎週金曜午後 リモートで江戸仲間女子3名で【浮世床】音読そして色々雑談
いろいろ、お稽古やら都合やらをやりくりして集まって進行しておりマす。
今回は 中国オリンピックのスケートが気になっている様子ですが、決行されました(笑)

柳髪新話浮世床初編巻之中

びんさんが、朝飯を食べに奥に行っている間、息子株の3人 徳太郎・賢蔵・聖吉が女郎からもらった手紙の話

びんさんが戻ると、表を通る女人の品定め、その後友人の奥方の話、美しい女房を持つ友人は浮気ばかりする、色男の友人はいつも奥方とべったり寄り添っている等々・・・

江戸では夫婦で仲が良いのは、粋ではなかったのか???

その後 上方もの作兵衛が登場、浮世風呂でも上方ものは出てきたけれど、ケチの権化 

上方者と江戸者の飛白は、文字通りの江戸っ子であった三馬にとって、江戸礼讃のためと、言葉に特別の注意を払っていた彼の作家としての姿勢に由来する。『浮世風呂』をはじめ、三馬の作品の随所に見られる。

注より

作兵衛さんは、上方へ下り上りを弐文弐朱 本中によると、当時江ノ島に行くにも安上がりにして5両10両使ったという。江ノ島に行くのに10両は多いとは思うけれど、上方往復に弐文弐朱はかなりのドケチ

作兵衛さんが予約をして帰ると、短八と長六の会話、新道の八百屋でもらってきた猫に強い名前をつけたい、
弁慶・朝比奈・関羽・巴御前・板額・・・

そこへ、家に帰らないどら息子を探しに、中右衛門が来たる。
一人息子の放蕩ぶりを話、長六・短八・びんさんが「おめえが尻を拭うから悪いはな」

びん「人も三十越して道楽になったのはむづかしいよ。そのはずだ。見るほどの事、聞くほどの事が皆珍しいからここではまらねえはな」
長六「遊というものは、面白づくしにして金をつかはねばならぬようにしかけた物だから、手めえから了簡つけて、よっぽdp勘弁せねはならねえ」
短八「うかりとすると、おとし穴へはまるよ。三十こしてからはまった者は、これほど面白い事を今までしらなんだが残念、などとつかひかけるから、矢も盾もたまらぬ」

今も昔も三十過ぎても落ち着かない人はいる者です(笑)

これだけの人との会話をしながら、手は休めないびんさん、そしてちゃんと話し相手をしつつ、気を配る。
たしなめる時はちゃんと意見し、一緒に女子の品定めにも加わる。

凄腕 びんさん(笑)

猫の名前をつけるのに「朝比奈」を調べてみました。

朝比奈 義秀(あさひな よしひで)は、鎌倉時代初期の武将・御家人。安房国朝夷郡に領地としたことで朝比奈を苗字とする。朝比奈氏(和田氏一族)の当主。
父・和田義盛が北条氏打倒を企てて起こした和田合戦で、最もめざましく奮戦した武将。『吾妻鏡』はこの合戦での義秀の活躍を詳細に記述している。

安元2年(1176年)、和田義盛の三男として誕生[1]。母は不詳(後述を参照)。

正治2年(1200年)9月、小壺の浜で2代将軍・源頼家が若い御家人と共に笠懸をし、船を出して酒宴を催していた際、水練の達者と聞き及ぶ義秀にその芸を見せるよう命じた。
義秀は海に飛び込み、10回往還し、次いで海の底へ潜り、三匹の鮫を抱きかかえて浮かび上がり力を示した。頼家がその技を賞して奥州産の名馬を賜おうとすると、この馬はかねてより兄・和田常盛が所望していたものなので、常盛は相撲ならば弟には負けないと言い出し、浜で相撲の対決をした。双方大力で容易に勝敗は決しなかったため、北条義時が間に入って引き分けさせたが、常盛は衣を着替える間もなく馬に飛び乗って去ってしまった。義秀は大いに悔しがり、その座にいた者は大笑いした。

義秀の大力の話は『曽我物語』にもあり、また鎌倉の朝夷奈切通(朝比奈切通し)は義秀が一夜で切り開いたものという伝説もある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%AF%94%E5%A5%88%E7%BE%A9%E7%A7%80

~源頼家の小坪遊覧での伝説~
『吾妻鏡』によると・・・
1200年(正治2)9月2日、源頼家は小坪の海辺を訪れた。
笠懸を催した後、海上に用意された船で酒宴を催している時、頼家は泳ぎが達者という義秀にその腕を披露するよう命じる。
 断るわけにもいかず海に入った義秀は、数町も往復してみせた後、波の下に潜って三匹の鮫を捕まえて浮かんできたのだという。

頼家は、義秀への褒美に、この日乗ってきた奥州の名馬を与えようとするのだが・・・
以前よりその馬を欲しがっていた義秀の兄・和田常盛が「相撲の勝者に与えるのはどうか」と提案。
その話にのった頼家は、船を岸に着け、小坂光朝の屋敷の前庭に二人を呼んで勝負を命じた。
なかなか勝負がつかなかったが、義秀が優位となったところで、遺恨が残らないようにと北条義時が勝負を預かりにする。
すると、常盛は裸のまま名馬にまたがり逐電してしまった。
義秀は悔しがったが、見物していた者は大笑いだったのだとか・・・

常盛が乗り逃げした名馬は、大江広元が献上したものだったのだという。

https://www.yoritomo-japan.com/jinbutu/asahina-yosihide.html

この後和田合戦に〜

和田合戦図 2代目歌川豊国

和田合戦(わだがっせん)は、鎌倉時代初期の建暦3年(1213年)5月に鎌倉幕府内で起こった有力御家人和田義盛の反乱である。

建暦3年(1213年)2月、北条義時を排除しようと企む泉親衡の謀反が露見。その折に和田義盛の子息 義直、義重と甥の胤長が捕縛される。その後、子息の2人は配慮され赦免になる。義盛は三浦を含む一族を挙げて甥の胤長も赦免を懇請したが、胤長は首謀者格と同等のため許されず流罪になる。更にその後、旧胤長の屋敷を没収される。これらの件で両者の関係は悪化。鎌倉幕府創業の功臣であり侍所別当の和田義盛は5月、姻戚関係にあった横山党や同族の三浦義村と結んで北条氏を打倒するための挙兵をした。だが、土壇場で義村は御所側へ付き、兵力不足のまま和田一族は将軍御所を襲撃、鎌倉で市街戦を展開。合戦は2日間にわたり続くが将軍実朝を擁し、兵力で勝る義時が圧倒。和田一族は力尽き、義盛は敗死した。

この合戦の勝利により、北条氏の執権体制はより強固なものとなった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%94%B0%E5%90%88%E6%88%A6

朝比奈義秀のパパは、鎌倉殿の13人のうちの一人、和田義盛

のちに北条義時の挑発に乗って、和田合戦で和田一族滅亡に追いやられる。

朝比奈義秀は前出の、伝説のように大力であり、勇敢であった様子、のちの和田合戦でも大活躍した。(和田家滅ぼされちゃったけど) 
諸説ありだけれど、朝比奈義秀のママは巴御前という説もあるそうです。

猫の名前に強いものをと考えて、朝比奈がパッと出てくるのは、江戸時代庶民には浸透していたのだと思われます。

鎌倉殿の13人の勉強も兼ねて、調べましたが、色々出てくる出てくるw 朝比奈の怪力の伝説や和田合戦も今後ドラマでも演じられるのでしょうかね〜 

金曜午後のリモートまとめが、今までかかりました(笑)



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