穴守稲荷神社の御神砂

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先日、羽田散歩の際、最後は穴守稲荷神社への参拝でした。
ちょうど、穴守稲荷は修繕工事中でございました。

江戸時代
1804年(文化元年)の新田開墾の折り、海が荒れて沿岸の堤防が決壊し、村々は海水による甚大な被害を受けた。村民が堤防の上に祠を勧請し、稲荷大神を祀ると、海が静まって大きな実りをもたらした。これが穴守稲荷神社の起こりとされている。穴守という名の由来は、堤防に開いた穴の害から人々を守るという神徳にちなむ。元々は新田開拓を行った鈴木家の土地にある、小さな祠であった。
江戸時代には、「穴守」という名前が「『穴』を『(性病から)守る』」に通じると考えられて、遊女達の信仰を集めたという。

wiki穴守稲荷神社

「穴守稲荷」
羽田村の鈴木新田の潮除守護神として、江戸時代から祀られていた稲荷の小祠が、明治18年(1885)、公許を得て穴守稲荷と称し、商人や花柳界の信仰を集めた。35年(1902)には、京浜電車が参詣用の支線を敷設。赤鳥居や茶店が門前に並び、盛況をきわめた。連なる赤鳥居の絵あり。「海岸蒲 田桃谷 大師 池端 六郷橋 雜色 山谷 川崎 八幡塚 穴守大鳥居 大森 八幡」と記された京浜電車の乗車券が書き写されている。

— 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「穴守稲荷」より抜粋

江戸時代 新田開発で災害や天災に苦労した人々の祈り 漁業で海の災害を受けた村人たちが、堤防の上に祠を勧請して稲荷大社を祀った。明治〜戦前まで 稲荷社の近辺で潮干狩りができること、温泉もあり、門前には温泉旅館や芸者置屋などが繁盛した。
後 前述した、戦後のGHQの強制退去があり、大鳥居だけが現在も穴守稲荷神社とは別の場所に鎮座してる。

穴守稲荷神社は工事中だったのですが、御神砂をいただくことができました。

神砂(あなもりの砂)の由来

老人が漁に出て魚を釣り上げて魚篭に入れたが、中を見ると湿った砂があるだけだった。翌日も翌々日も大漁となるも、篭をみるとやはり湿った砂があるばかりであった。老人はいぶかしく思い、村人たちにこのことを話すと、村人たちはこれを狐の仕業として稲荷神社を取り囲み、一匹の狐を捕まえる。しかし、老人は狐を許してそれを解き放った。
それ以降、老人が漁にでると必ず大漁となり、篭には多くの魚とわずかばかりの湿った砂が残るようになった。老人が砂を持ち帰って家の庭にまいたところ、客が途切れることなく訪れるようになり、老人は富を得た。そのため、穴守の砂には招福のご利益があるとされ、今も多くの参拝者を集めている。

wiki 穴守稲荷神社

家内安全 玄関前に御神砂をまきました。
果たして、効能は・・・・



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