江戸仲間と江戸について勉強するという名目で遊んでいるグループで1日遊んできました。9/28

午前 羽田町歩き
午後 穴守稲荷駅 羽田クロノゲート見学
夜 赤坂 忍者レストラン

羽田と聞けば今は、羽田空港
江戸のお勉強では、「魚類は江戸湾の漁業集落である芝浦・羽田・生麦など八箇所を御菜浦に指定し、そこから
交代で月四回、無償で御菜魚が上納されていた」(博覧強記より)
つまり、羽田はお魚がいっぱい取れる漁業集落であった。

ガイドさんの説明で敗戦後、羽田空港を整備するため、短い期間でGHQにより強制退去させられ、穴守稲荷神社の大鳥居だけが頑丈にできていて撤去できなかった。とありました。
調べてみました。

東京飛行場は日本に駐留する連合国軍(実態は関東地域の占領を担当したアメリカ軍)が使用する基地となり、ハネダ・アーミー・エアベースHaneda Army Airbase、羽田陸軍航空隊基地)と呼ばれることとなった。なお、飛行場の正式名称に「羽田」が用いられたのは、このときが初めてである[21]
しかし、アメリカから見て当時の東京飛行場の規模(面積72ha)はローカル空港程度でしかなく、早急な機能拡張が求められた。そのため、9月12日の引き渡し命令の対象は、既存の飛行場施設に留まらず、拡張用地確保を目的として隣接する3町(羽田鈴木町・羽田穴守町・羽田江戸見町)をも含んでいた。この地区には1200世帯・3000人が居住していたが、敗戦国であった日本に拒絶の余地はなく、終戦を迎えたばかりの対象住民らは同21日に警察から口頭で12時間以内の退去を知らされた。その後区役所と警察を介して行われた交渉によって制限時間が48時間以内に延長されたが、それ以降立ち入った者に生命の保証はないとの条件が付けられた。住民らは短時間のうちに家財をリヤカーや舟に積んで立ち退くことを余儀なくされた。
制限時間経過後も忘れ物を取りに命懸けで戻る者がいたこと等から、その後GHQから日中に限り町への出入りが1週間だけ認められたというが、住民の退去後旧居住区は稲荷橋に設けられた入場ゲートや武装したアメリカ軍憲兵によって封鎖され、住民たちは完全に排除された[21]。何ら補償も行われないまま[24]この地を追われた旧住民らは、住居がアメリカ軍の巨大なブルドーザーやショベルカーによって軒並み取り壊されていく様を海老取川の対岸から見守ることしかできなかった[21]。接収された地が旧住民らの手に再び戻ることはなく、その大部分がB滑走路の一部を含む空港敷地として今日も使われ続けている[21]
——-略————
11月から本格的に開始されたアメリカ軍808飛行場建設部隊による大規模な飛行場拡張はまたたく間に進展し、水路(東貫澪)を浚渫して鈴木御台場と繋ぎ、広大な敷地を造成した[20]。しかし、敷地内にあった穴守稲荷神社の大鳥居だけは頑丈にできていたため撤去できず、その後もこの地(更地、後に駐車場)に残された[21][22][27]。この大鳥居は、沖合展開事業に伴う新B滑走路の拡張計画にて障害となるため撤去の計画が出ていたが、移転費用を近隣住民を主体とする有志が負担すると申し出たことにより、1999年2月に800メートルほど南の現在位置に移される[28][29][30]
なお、接収地の一部であった黒田家(旧福岡藩)の鴨池に、飛行場に留置されていた多くの日本の飛行機や兵器が投棄されたと言われる[20][21]。この時の拡張工事はGHQの重機と「占領軍労務者」として働いた約2000人の日本人たちによって1946年6月までに竣工し、旧A滑走路(2000m×45m)と旧B滑走路(1650m×45m)が完成した[21][23][31][32]

東京国際空港 連合軍による強制撤収

8/15に敗戦 9/21に12時間以内に飛行場施設や拡張用地確保を目的としてGHQは、隣接する三町(羽田鈴木町・羽田穴守町・羽田江戸見町)の引き渡しを命じた。制限時間48時間以内に延長され、後日中一週間だけ町への出入りが許された。
11月から本格的に拡張されていく。
当時の羽田の町の人はなすすべなく、軒並み取り壊されていく様を見守ることしかできなかった。
無念だったでしょう

その中でも、穴守稲荷神社の大鳥居だけが、移動できず、街人たちはGHQも穴守稲荷には勝てないと思ったでしょう

門前に建っていた赤い鳥居はとても頑丈な作りだった。ロープで引きずり倒そうとしたところ、逆にロープが切れ、作業員が怪我したため、いったん中止となった。再開したときには工事責任者が病死するというような変事が何度か続いた。
これは、「穴守さまのたたり」といううわさが流れ、稲荷信仰などあるはずもないGHQも、何回やっても撤去できないため、結局そのまま残すことになった。— 京浜急行電鉄『京急グループ110年史 最近の10年』(2008年)「羽田飛行場の始まりと穴守線強制接収」抜粋

— 京浜急行電鉄『京急グループ110年史 最近の10年』(2008年)「羽田飛行場の始まりと穴守線強制接収」抜粋

江戸時代から漁業が盛ん、海沿い川沿いとして、水害も多く 稲荷神社がたくさんあります。
そして近年飛行場として繁栄 空の旅の安全祈願等々 稲荷神社・仏閣が多い町でございました。

午後はクロノゲート(ヤマトグループが運営する日本最大級の物流施設)を見学、撮影不可
youtubeでも十分伝わるけれど、実際に見ると凄いデス コンピュータに制御された物流システム 驚きでゴザル。

夜は 赤坂忍者レストラン、海外観光客が七割
https://ninjaakasaka.com/
日本人に対するおもてなしは いまいち苦手???www
席に座るまで、忍者屋敷をこわごわ通り抜け、忍者が接客してくれる、創作料理で結構お味もしっかりしていてよろしゅうございました。

海外の方々は大喜び

帰りに忍者からのメッセージを頂きました。

一日よく遊びました。



◆◇◆記事を読んだご感想をお聞かせください◆◇◆
  • 素晴らしい (1)
  • 役に立った (0)
  • いいね (1)
  • マダム好き (0)
  • つまんない (0)

1件のコメント

  1. ピンバック: 穴守稲荷神社の御神砂 | Madam'Blog

コメントを残す